【SS】緑のやつ早く買わなくっちゃ


 あ、またリップクリーム忘れた。
 ざらざらとした割れそうな唇を、沙祐美は反射的に舐めてしまってから、後悔した。

 皮も浮き上がってきそうになるし、今日は割れる。どうにかならないか、いや、どうにもならないな、とため息をつく。
「どうしたんですか、そんなため息をついて」
「なんでもないよ」
 後輩である冴木が、こちらを覗き込んでくる。平気、と言って、目の前の自分のモニターに目をやった。
 素直に、リップクリームを貸してと言おうか。いや、そもそも貸し借りするもんじゃない。
 今日は、これ以上舐めずになんとか乗り切って、帰り道に一個100円ぐらいのメンソレータムのあの緑のやつを10本ぐらい買って、至る所においておこう、そうしよう。

***

「沙祐美さん、唇から血出てますよ」
「あぁ、うん」
 あれから、気にしないようにすればするほどに、乾燥がやたらと気になってしまって、何度も舐めてしまった。一度舐めてしまうと、それが乾く頃には余計にパサパサになっている気がして、また舐めてしまった。その繰り返しだ。
「うん、って……パックリいっちゃってるじゃないですかぁ。しかもガビガビだし」
「リップクリームを、忘れちゃったんだよ」
「こんな季節に」
「そう。こんな季節に」
 本来なら、一時間ごとぐらいに塗りたいぐらいの乾燥した季節だ。部屋に入っても、暖房がついているから尚更なのに、忘れてしまった。
 さっき、コートの内ポケットに入っていなかったか、と一縷の希望を見出して弄ったが、なかった。そういえばこの前、休みに出かける時他のコートを着て、そっちのポケットに移したままだった。
 本当に間が悪い。たったあの小さくて短いあれがないだけで、テンションがだだ下がりだ。

「じゃあ、貸してあげますよ。綺麗にしてからつけてくださいね」
「え、」
「舐めた後につけるって、唇に悪いですよ」
「いや、だって。リップクリームって貸し借りするものじゃないでしょう」
 キョトン、とした顔がこちらに向けられる。あ、思ったよりも目が大きい。静かな湖が鏡面になるように、その目に狼狽えた沙祐美の表情が映っていた。
「そうですけど、そんなことより痛そうだし」
 何より、間接キスぐらいで騒ぐ年齢でも、潔癖でもないんで、とさらりと言われる。
 こんなことなら、さっさと借りておけば良かった、と思いながら、ちょっとトイレに行ってくる、と立ち上がった。

 唇を洗って、丁寧に水気を拭き取り、借りたリップクリームを塗る。
 久しぶりの潤いに唇は歓喜していたものの、割れた部分は痛く、むにむにと唇同士を擦り合わせていた。
「ありがとう、助かった」
 自分の席に帰って、借りていたものを返すと、いいえ〜となんでもないように冴木は言って仕事に戻った。

***

「また忘れたんですか?」
 ギシリ、と椅子の背もたれに体重がかけられたのか軋んだ音を立てた。
「え、」
 なんで分かるの? まだ、出血も、ガサガサもしていないのに、と冴木の方をじっと見つめた。
 喉元過ぎればなんとやら、ではないけれど、10本のメンソレータムの緑のやつ計画は、しばらくリップクリームを忘れなかったことにより、まだ未遂のままだった。
 やっぱりやっておけば良かった。手のひらに大きくマジックで書いておこう。そんで帰り道に買って帰ろう。
「分かりますよ。露骨にテンション下がってるの。ほら、貸してください、」
「え、あ」
 顎クイ、とでも言えばいいのだろうか。ぐい、と顎を引っ張られ、強引にリップクリームを塗られた。距離が近い、吐息がかかりそうだ。ベタだけど、まつ毛が長い。ずっとつけまつ毛とかマツエクだと思っていたけど、もしかしてこの感じは自まつ毛なのかもしれない、なんてことを思っていた。
 何を考えればいいか、どこに視線をやればいいか、分からないままでいる間に、リップクリームは塗り終えられた。
 そっと、顎を解放された時に、なんか、と小さく呟かれた。うん? と覗き込むと、これまた嬉しいとも悲しいとも言えない、そんな中間のような表情で眉根を寄せていた。

「昔、彼氏にこうやってリップクリーム塗ってたこと思い出します」
「へえ」
 聞きたいような、聞いていいのか。どんな表情でいればいいのか、分からない複雑な気持ちが入り混じって、頭の重みだけでそっと頷く。
「この季節、キスするたびに、その彼氏の唇が荒れてて痛くて」
「はあ」
 惚気だろうか、と思った瞬間、露骨にテンションが下がってしまい、口を開けたまま返事をしてから、むに、と唇を擦り合わせる。
「あ、もうとっくに別れてるんですけど」
 そうなんだ、とまた頷く。それ以外になんと答えればいいのだろう。冴木とは何度かタイミングが合った時に飲みに行ったことはあるけれど、そんなに頻繁でもないし、特別仲が良いわけでもない。休日に連絡を取ることもしないし、なんなら連絡先を交換したか記憶が定かではない。
 だから、こんな話をするのは初めてで。いや、酔ったときにちょっとだけしただろうか。
「その時に、キスするためにこういうことするんだなって思って」
「え、」
 何を言っているんだ、と咄嗟に見つめる。冴木は気が抜けたようにふっと、笑う。
「あんまりいい別れ方してなかったので、上書きできて良かったです」
 ありがとうございます、と言われて、はあ……どうも、とまたもや間抜けな返事をすると、ふっとその笑みに艶が混じったように見えて、冴木は一歩分の距離を更に詰めてきた。正確にいうなら、座っている椅子のキャスターを一周半分ぐらい、足で蹴って転がした。

「ところで、」
 沙祐美さんの唇って柔らかいですね、と沙祐美だけに聞こえるように、彼女はそう囁いた。
「また、忘れたらこうやってつけてあげるんで、忘れてもいいですよ」
 ふ、とその吐息だけで笑みが溢れるのがわかった。瞬きを忘れて彼女を見つめ返す。

 やっぱり、急いでメンソレータムのリップスティックを10本、買っておいたほうが良いかもしれない、とその口元に浮かんだ弧を見て、息を詰めた。

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