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恋心、文字化けにつき

 行方知れずになっていた恋心が、突然ふらり戻ってきた日、思わず私は声を上げた。
「こっ…こんにち…あ、お疲れさまです!!」

 失恋から数週間が経っていた。いや、数週間しか経っていない。
 まだまだ悲劇のヒロインでいるつもりだったし、食も細くなっていたのでしめしめとも思っていた。
 彼氏がちゃっかり他の女と楽しんでいた、とはよくある話。実は薄々気がついていたし、その脇の甘さがまた腹立たしかった。
 しかしそれより、私はもうこの人に恋をしていないのだ、とわかったことの方が決定的だった。
 嫉妬に狂うとか、その女が誰なのかを詮索する気も起きず、淡々と別れを切り出したら
「ごめんなさい2度としません」
 と必死に頭を下げられた。
 思いの外私が好きだったのね? 2度目なんてあるはずないのに。

「で? 結局許せなかったの?」
「許すも何も、もう失ってたの、恋心っていうものを」
「ほええ。恋心、ですか」

 彼氏と別れた経緯を、仕事中にダラダラと話し続けられるのは、依頼元からデータが届いていなかったからだった。隣で
「早く処理しないと残業になるの確実なのにー!」
 と同僚の須磨子が吠えていたが、私が彼氏と別れた話を切り出すと、いい暇つぶしを見つけたとばかりに食いついてきた。
「浮気を許せないタイプかー」
 そっちのタイプねというその口ぶりは、いかにも許せますという風だったので、念のため確認してみたら
「許せないに決まっているじゃない!」
 そう叫んだ後
「私だったら息の根を止めるね」
 と盛大に殺人予告をする須磨子は、大学生の頃からずっと付き合っている彼氏がいる。2度ほど「もう別れた!」と聞いたけれど、相変わらず仲良くやっているらしい。

 なぜそんなに長く好きでいられるの?
 ねえ、今もその恋は続いているの?

 そう聞こうとした時だった。
「遅くなってすいません!」
 事務所の自動ドアを手でこじ開けるみたいにして、見慣れない男の人が息を切らせて入ってきた。
「あの…!澤元印刷のものです!これ、預かってきたデータです。これが直しの部分で…それで、これ、今日中に、ってゆうか16時までにお願いしたいと言われまして…、無理を言っているのは承知してるんですけど…!」

「来た来た!」とにこやかに迎える顔だったはずの須磨子がものすごく渋い顔で席を立った。立つと妙に迫力があるのは、背が高いだけじゃなく、臆することない性格ゆえだろうなと思う。
 須磨子は挨拶もしないでズンズンと受付カウンターに行くと
「16時!? いやいや、どう考えても無理です、電話でもなるべく早く持ってきてほしいと伝えたのに、この時間にきて16時っておかしいでしょう? 先方には17時…17時半でと伝えてください。16時はお約束できかねます!」
 そして私を振り返る。
「ねぇ!いくらなんでも無理よね!…って、聞いてる!?」

 体感、私の顎が外れていた。なんなら腰も抜かしそうだった。
「こ…こんにち…あ、お疲れ様です!」
 急に2人の視線がこちらに降り注いだので、なんとか無理やり声を出して、恐る恐るカウンターに近づいてみる。
「あ、お疲れさまです!」
 その人は、私に丁寧にお辞儀をすると、そのままの姿勢で
「なんとか対応お願いします!」
 とよく通る声で言った。短い髪の毛のてっぺんが、規則正しい渦を巻いていることにさえ好感度が高まる異常事態だった。
 短期間に、2度も男性から丁寧に頭を下げられている、そんなことを、彼のつむじを見ながらふと思い出してしまったが、浮気男のつむじを頭から追い出すために、つい大声を出して返事する。
「はい! 喜んで!!」
 しまった、つい学生時代の居酒屋のバイトの癖が。
 そう思った瞬間に、須磨子に頭をいい音で叩かれた。
「喜ぶなよ!無理だって言ってんの!!」
 そのまま須磨子は、滑り込むような美しいフォームで椅子に座ると、渡されたデータを開いて一旦「キィー!!」と叫んだ。
「16時は無理です、とにかく無理!だけど今すぐ始めます! ……ちょっと聞いてる!? あんたが受けたんでしょうが!」
 慌てて指示書に目を通しながら肩をすくめてみせた、出来るだけ可愛く。
 16時、16時に終えたら、あなたの業務も終わります?今日って確か金曜日なんですけど、その後ちょっと打ち上げにでも、なんてな。
 ……いかん、全然集中出来ない。よこしまな気持ちが邪魔をする。
 誰なのこの人、なんなのこの人、視界に入るだけで胸の中心から大事なネジが抜けるような感覚になる、キュルキュルキュルン。

 そう思っていると、須磨子が画面に目を向けたまま、大声で言った。
「あのですね、16時まで一旦出てもらってもいいですか?もしくはそこのミーティングルームに姿を隠してもらえると、仕事がとてもしやすいのですけど」
 ナイス須磨子、私もそれがいいと思っていたところだよ。
「あ、はい、すいません!あの、じゃあ一旦出ます、また来ます、17時半と先方に伝えてみます!」
 彼は、私たちにもう一度丁寧に頭を下げると、携帯を探すためかスーツの内ポケットをゴソゴソしながら矢継ぎ早に言った。その彼の心地よい声を噛み締めながら、自動ドアが閉まるのを切なく見送る。

「ね、あれ誰!?」
「知らん! 今それ重要!? 16時まで2時間ないんだけど!」
 須磨子の声を聞いて初めて我に返った。
「2時間ないの!? 誰そんな仕事受けたの!?」
「オメェだよ…!!」

B0版のポスター、デザイン違いで3枚、特殊な加工をする印刷のデータだ。
大きなパフェの写真は色校正で何度もやりとりをしているが、さらに他の部分に直しがやたら多いのと、データが異常に重いのと、対応してないフォントに眩暈がする。
「アウトラインかかってないよねコレ?」
 ポスターの細部に文字化けがいくつかあった。このフォント、なんていうのかな、持ってるやつだといいんだけど。
「意思疎通出来ない感じがするよね文字化け見ると。それだけで時間食う」
「だから、それをあんたが喜んで受けたんでしょうが!」
 だけど、別の眩暈の方がずっと強い。
 カチリと集中する音がした。無音の中で、私と須磨子は仕事をこなしていく。キーボードの心地良い音。紙の擦れ合う音、キュインとインクが吹き付けられる音。
 時折、須磨子の長いため息が漏れるのに合わせて、私もそっとため息を漏らす。

 もしこれが、16時までに終わったら。


「お疲れ様です!あの、先方、何とか17時で納得してもらいました!すいません、それ以上は待てないらしくて…!」
 16時20分だった。16時前に一度電話をよこした営業の彼が、ミルクティーのペットボトルを2本カウンターに置きながら、保護してもらえるかもらえないかの瀬戸際の子犬のような顔をしてやって来た。保護したことないからわからないけど。
 須磨子がそのミルクティーをチラリと見つつ
「次は無理ですよ、ある程度余裕もってくれないと細かいチェック漏れるかもしれないし。あ、それとあなたの名刺もらえます?」
 と完全に保護しないタイプの顔で言ったので彼は一瞬怯んだが、現時点で仕事を終わらせているらしいその言い方に、彼の尻尾が揺れたのがチラリと見えた気がした。
 可愛いなこんちくしょう。
 彼が慌てて名刺ケースを取り出す様子を見ながら、私も丸めたポスターを手にカウンターに駆け寄った。
 名刺、名刺、私も欲しいと、両手で自分の名刺を持って待機する。
「あの、澤元印刷の澤元です。今後ともよろしくお願いします!」
 澤元さんは、また丁寧に頭を下げた。

 澤元印刷の澤元……?
 おや……? もしや、澤元社長のご子息では…?
 と気がつくのと、彼が指示書とB0ポスターを抱えて「本当にありがとうございますうぅぅ」と飛び出していくのはほぼ同時だった。


「あれが澤元社長の息子かー!東京から戻ってきたんだよね。あれ、こないだ結婚式してなかった?」
 ……してた。
 結婚式のパンフ作ったわ、私。
 なんて素敵な新郎だって思ったわ、私。
 新婦うらやましすぎて身悶えしてるとき、彼氏が浮気してたんだった。他人の新郎にときめくぐらい、彼氏に恋をしてないことに気がついた瞬間だった。
「こんな風に彼と結婚したい」って1ミリも思わなかった自分に愕然として、浮気してたことにホッとさえ、した。
 多分、彼はずっと前に私に失恋していたんだろう、彼の気持ちを読みこみたいなんて、もうずっと思ってなかった。
 初めて、元彼に対して、ごめんと思った。


 それにしてもだ。写真で好みとは思ったが、現物の破壊力凄かったな。あれが一目惚れというやつか。
 そんで、新しい恋、2時間弱しかなかった。あの衝撃、何かが始まると思ったんだけどな。
 あったのは、文字化けだらけの恋心。物語にもなりはしない。

「ねぇ須磨子さん? 今日は彼氏とお約束あり? ちょっと本日、もう一度失恋してしまったんだけど、その辺の話、聞く気はない?」
 残業予定のなくなった須磨子が
「あんた面白っ!もう今日は電話出ちゃダメよ、ややこしいの来たら嫌だから」
 といそいそ帰り支度をしようとする。
 それから彼氏に「帰り遅くなる!」とメールを打った。
 全く、あなたたちが心底羨ましいよ。



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ノンフィクションに近いフィクションです!

職場で、営業さんに腰をぬかしたことがあるのが本当の話し(笑)
あれが恋かと聞かれればちょっと違う、多分好きな芸能人見た感覚に近かったです。うちの担当じゃなかったみたいで、その後2度とお目にかかれませんでした。
その人が事務所から出て行った時、膝から崩れて同僚にめちゃくちゃ笑われました。

で。同僚曰く「もう恋歌ってる頃の槇原敬之似」だったらしいです。
私には、とんでもない光を放っている人に見えたんですが?
今、鈴木亮平さんファンなので、眉毛が太めでハの字っぽい困り顔の人に弱いと、そういうことかもしれません。ちなみに夫は、眉毛が薄いけど、ハの字かもしれない…!!という事実。


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