【エッセイ】芸術とエンタメの違い、芸術と幸福度の関連性、および我が国の幸福度向上案について


芥川龍之介は、芸術の鑑賞は芸術家と鑑賞家の協力である、と述べています。(侏儒の言葉)

私自身も、どんなに優れた芸術であったとしても、鑑賞する側にそれを味わう意識がなかったならば、芸術の鑑賞は成立しないと思います。


これが芸術作品とエンタメ作品の決定的な違いでもあります。

エンタメ作品は、鑑賞家に鑑賞しようという意識がなかったとしても楽しめるように作られてるのに対し、芸術作品は、受け身の意識ではなく、積極的に作品を鑑賞しようとする意識がなければ鑑賞が成立しにくいものです。


翻って現代日本では、エンタメ作品は絶大な人気がある一方、芸術作品への関心は薄いようです。

そのうえ、芸術を志向した作品にさえも「もっとわかりやすくしろ」などといいます。

これでは我が国で芸術家がふえないのは無理もありません。



エンタメ作品と芸術作品の違いを国民の多くにわかってもらう必要があると思います。
それにはどうすればいいでしょうか?


私の考えるには、学生の時から、具体的には小学校高学年から中学生にかけて、自身で芸術制作をする機会をつくることだとおもいます。

たとえば、文章であれば、短い小説や詩の執筆は小学校高学年以上であれば可能ですし、絵画や彫刻などを作る機会も増やしたらいいと思います。

そのように、芸術制作に自ら関わることで、芸術作品に対する理解を深めることができると思うのです。


エンタメ産業が日本では発達しているのは確かですが、だからといって芸術を志向した活動をないがしろにしたり、制限したりすることは適切ではありません。


エンタメ作品にしか親しめず、芸術作品に対する関心や理解が低いことは、人間としての成長の機会が失われることを意味しています。

芸術のなかには「わからない」ものもありますが、それをなんとかわかろうとすることは、人間的成長につながるものであり、したがって幸福度向上にも有益です。


現代日本では国民の幸福度の低さが指摘されています。
おそらく先進国に限ればワーストクラスでしょう。

その原因を、経済の停滞や不況、その結果としての格差拡大に求める人もいます。

しかし私は、これらは決定的な要因ではないと思います。

それよりも、芸術作品に対する興味と理解の低さが、国民の理解力や感受性を育てることを損ね、なにげない日常に喜びを感じる力を奪っていると思うのです。

このことこそが、日本の幸福度が低い1番の原因ではないかと思うのです。

そのため、これからの我が国でも、一人でも多くの人が芸術作品に対する理解を深め、できれば自ら芸術創作にとりかかるなど、芸術との主体的な関わりをしてほしいと思っています。


「芸術創作」などというと物々しく思われるかもしれませんが、そうとも限りません。

たとえば575。

日本に古来からある短歌からの派生系である575をひねることは、立派な創作活動であり、芸術と主体的に関わることになります。

他にも短い小説や詩など、手軽に参入できる「芸術」は多くあります。

まずはこれを読んだあなたも、そのようなものをひとつ自分で作ってみることを、このエッセイのまとめとして、提案したいと思います。



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