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「竜とそばかすの姫」を解説する―コンプレックス、現実世界と仮想世界

ネタバレ注意です。

率直に思ったこと

①映像と音響の美しさ

まず、率直に映像美と音の美しさが印象的でした。

細田さんの「サマーウォーズ」では、インターネット空間「OZ」の世界が描かれていましたが、今回は約10年の時を経て、最新のインターネットの形である、身体と接続する仮想世界「U」という設定。「U」は50億人が利用していて、壮大で、3D感覚があり、独特の世界観で美しく描かれていました。

その中で、主人公Belleの歌を中心とする音楽も非常に美しく、人の心に響くものがありました。主人公のすず/Belle役の中村さんの歌声は、心に訴えてくるものがあるというか、現実世界で抑圧されていて表に出せない感情を、仮想空間でBelleという「代理人(アバター)」を通して思いっきり表現するのですが、映像美の中での歌声の美しさで鳥肌が立ちました。

②ディズニーや手塚治虫作品のオマージュ

第一印象としては、ディズニーのキャラクターに似ているなと思いました。立ち振舞い、目の動き、お城でBelleと竜の躍るシーン。全然知らずに観たのですが、「美女と野獣」のオマージュとのことでした。「美女と野獣」でもベルという名前ですね。

細田さんのインタビューがありましたので、引用します。

今回は映画を作る上で、インターネットの世界で「美女と野獣」をやったらどういうことになるか?というのが発想の一番最初でした。インターネットってやはり二重性というか、現実と虚構の二つの部分を最初から併せ持っている存在で、野獣も二面性を持っている存在ですよね?18世紀のフランスの物語が、現代の日本でインターネットを介して表現できたら、一体どういう風に表現できるのか?どんな恋物語になるのか?どんなロマンスになるのか?それが発想の原点です。

「竜とそばかすの姫」完成報告会見より

また、作品のなかに出てくる警備隊は、手塚治虫の作品に出てきそうなキャラクターになっており、手塚治虫の世界観も少し意識されてるのかなと思いました。

③「コンプレックス」と「最新のインターネットのあり方、可能性」

第一印象としては、人のコンプレックスと最新のインターネットのあり方、可能性について描いた映画だと感じました。特に「コンプレックス」が主要テーマかと思います。

テーマは「コンプレックス」

この映画では、人間誰しもが持つ「コンプレックス」をテーマにしています。そこへ、現在考えられるインターネットの最も進んだ姿である「身体とリンクした仮想空間『U』」という現代社会の "ツール" を「キー」として話が展開することになります。仮想空間のアバター「As」は、自分の分身でありつつ、オリジナルの人間が誰かはわからないようになっています。つまり、匿名Twitterのような設定ですね。

そしてもう1つ、冒頭の仮想世界「U」の説明がとても印象的です。

「現実は変えられない。さあ、『U』の世界で、人生をやり直しましょう。」

これはつまり、裏返すと「現実世界は変えられないもの」という前提を置いていることになるんですね。「変えられないから仮想空間で理想の人生を生きるんだ」と言っていることになります。これは、

現実世界 < 仮想世界(良いもの)

という構図です。乱暴な言い方をすると、現実世界のコンプレックスは、現実世界で乗り越えることは諦めて、隠して、理想の仮想世界で生きよう、ということになります。

ここにこの映画のポイントがあると思いました。「変えられない現実」、「乗り越えられないコンプレックス」。それらに対して、挑戦を描くシンプルな映画なんですが、ツール(キー)として仮想世界「U」というものが大きな存在になります。

「サマーウォーズ」もリアルとネットの両方で、「人と人とのつながりの可能性」について描いた映画だったと思いますが、「竜とそばかすの姫」でもそれは同じで、「現実世界」と「仮想世界」は相互に影響を与える関係として描かれています。つまり、

現実世界 ≒ 仮想世界
(相互に影響を与え、重なるもの)

という構図になります。

映画のあらすじ

ここで、少々あらすじを紹介します。

主人公は、自然豊かな山に住む女子高生のすずで、舞台は高知県となっています。子どもの頃は両親に愛情いっぱいに育てられ、母と一緒に歌うことが大好きな少女でした。ある日川遊びに行ったときに、大雨により川が増水して、中州に知らない女の子が取り残されてしまいます。泳ぎがうまいすずの母親は、すずが「行かないで」としがみついて止めるも、「誰かが助けないと助からない」とすずを置いて川に飛び込んでしまいます。結果的に、その知らない少女は助かり、すずの母は帰らぬ人となってしまいます。

重いコンプレックス

その日を境にすずは心を閉ざし、父と会話ができなくなり、人前で歌を歌うことができなくなります。歌おうとすると戻してしまうくらいひどい心の傷を負ってしまっています。すずは、高校生になっても「なぜ母があのとき、自分を置いて川に飛び込んだのか」理解できず、ふさぎ込んでしまいます。

軽いコンプレックス

また、映画では、たくさんの人のコンプレックスが描かれています。

・すずの友人は、陰キャでクラスの人気者に憧れたり、妬んだりする
・仮想世界「U」の人気者は、現実世界では平凡で自信がない
・仮想世界「U」の警備隊は、正義を振りかざして平和を目指しているように見せかけて、人々を制圧したい欲望を隠している
・クラスの人気者の女の子は「太陽のよう」と言われてるが、実は自分に自信がなくて、告白のときにもうまく話せない

そういったシーン数多く出てきます。

身体接続型仮想世界「U」

また、仮想世界「U」は、全世界で50億人の人が利用する身体接続型の仮想世界です。「『U』はもう1つの現実、『As』はもう一人の自分」という設定で、「現実は変えられない、仮想現実『U』でもう1つの人生を生きよう」というのが謳い文句になっています。

身体接続型の仮想空間については、古くは映画「マトリックス」に始まり、ちょっと違うが映画「アバター」や、アニメ「ソードアートオンライン」など、これまでも多く扱われてきたテーマです。身体情報をAIが解析し、視覚や身体感覚を仮想空間のアバターに接続して、仮想空間で実感覚を伴う体験をもたらします。これは、現在のAR/VR/MRなどで進化している仮想空間と、脳科学で研究されている人の意識・認識は全て脳への電気信号であるという研究から、意図的に身体感覚、視覚、聴覚等を刺激する電気信号を送ることができれば、もう1つの仮想世界を現実のように体験できるよね、という思想に基づくものです。

話がそれましたが、山奥に住む高校生が仮想世界「U」により、全世界の人々と簡単につながることができる世界が描かれています。

現実世界で歌を歌うことができない主人公すずは、ある日「U」を進められて、自身の分身 Belle(「美女と野獣」の美女のベル)となり、仮想世界でのみ、やっと歌を歌うことができるようになります。これまで抑圧されていた感情が一気にあふれ出て、それが表現力となり、多くの人の心に響く歌を歌うことができます。「U」の中で一気に人気者となり、世界中から「オリジナルの人間はいったい誰だ?」と噂されるようになります。

一方、闇を抱える竜のアバター(「美女と野獣」の野獣のアダム)が、「U」において攻撃的で不要な存在として、警備隊に追われてるところに遭遇して、気になり始めます。闇を抱えた竜の表面の攻撃的な側面とは裏腹に、誰かを守ろうとする内面の優しさにに気づき、そして何か問題を抱えている存在ということにも気づきます。

二人は徐々に引かれ合い、Belleは心に響く歌(=誰からも理解してもらえない境遇の中、あなたの本当の心をわかっていますというメッセージ)をプレゼントし、二人は竜の城で踊り、より引かれ合うことになります。

竜は「U」の世界で追われる存在になっていきます。ある時、竜のオリジナルの人間(=オリジン)は、親に虐待を受ける兄弟の兄であり、弟が親から虐待を受けるのを自分が代わりに受け、我慢し、憎しみなどの感情を抑圧している中学生であることがわかりました。

これは、仮想世界で出会うことにより知ることができた事実です。現実世界の人間関係では見つからなかった事実ということもできます。そして、すずは、彼ら兄弟を助けようとします。ですが、助けるのは仮想世界ではなく、現実世界のリアルであり、どこに住んでいる誰なのかを知らなければなりません。

Belleが歌っている曲を弟が口ずさんでいたことから、運よくリアルの兄弟を特定できましたが、今度は信用してもらうことができません。心を閉ざしている状態、追い詰められた状態で、見ず知らずの他人に「私はあなたを助けたいんです」と言われても信用できないので、困ってしまいます。

そこで すず/Belleは、「権力の象徴」として嫌っていた警備隊が持つ特殊な銃で、自らをアンベイル(=仮想世界のキャラクターを剥がして、本当の人間を晒し出す)します。仮想世界「U」とキャラクターは、コンプレックスを隠すものであるのにも関わらず、それを自ら解き、50億人の人たちへ本当の自分を晒すことになります。そして、本当の自分の姿で歌うことで、自分がBelleであることを信じてもらおうとします。兄弟の兄である竜を助けたい、という気持ちから。

ここからクライマックスに入るのですが、解説は最後の方に譲ります。

仮想世界は現実世界を変えることができるのか?

ここまで話したように、映画は主題は「コンプレックス」となっています。

また、冒頭の「U」の説明は、「現実は変えられない、Uの世界(=仮想世界)で新たな人生をやり直しましょう」とありました。繰り返しますが、「現実世界は変えられないもの」という前提を置いていることになります。

・現実世界(リアル)で抱えるコンプレックスを、仮想世界(ネット)が克服できるのか?

・現実世界(リアル)で抱える虐待問題を、仮想世界(ネット)が解決できるのか?

そのような「問い」に対して、映画全体で向かい合う構成になっています。

また、現実世界と仮想世界は、切り離された別の概念ではなく、行き来して、相互に影響を与えて、時には一致させて、現実世界の問題も解決できる可能性がある、というメッセージと捉えました。言葉にしてしまうと、シンプルで、陳腐で、ありきたりかもしれませんが。。。

現実世界 ≒ 仮想世界

偶有性=「他であったかもしれない可能性」

ここで1つ面白い思想を引用してみます。社会学者である大澤真幸さんが「偶有性(=contingency)」という言葉を使って、「自由」について言及しています。

「偶有性」とは、簡単な言葉で言うと「他であったかもしれない可能性」という意味です。大澤さんは、戦争や阪神大震災で心理的ダメージを負って、通常の生活に戻れない人へのインタビューや、養子縁組の子どもの研究等から、人が自由になることはどういうことかについて考察しています。

お金があればという条件付きですが、人はほとんど何でも選択することができる存在です。何を食べるのか、何を勉強するのか、今から向かう目的地までどういうルートで行くのか、何を職業とするのか・・・。ただし、自分では絶対に選べないこともあります。戦争や震災などいくつか極限状態での例が挙げられているのですが、その中の最もわかりやすい身近な例が、自分の親です。人は自分の親を選べません。自分がどの親の下で、どのような家庭環境(裕福なのか、貧乏なのかなど)に生まれるのかは、選ぶことができません。

そう考えると、小さいうちの子どもには何も責任がないことになります。性格が悪くなろうが、足が遅かろうが、友だちに悪さをしてしまおうが、それは親から引き継いだ遺伝子と、生まれ育った環境の影響が全てであり、自ら選んだわけではない、子ども自身に責任は無いことになってしまいます。

大澤さんは、この「他であったかもしれない可能性」=「偶有性」に対して、「自分で自分を選択しておらず、自分の人生を選んでいない、放棄している」という状態では自由になれない、というようなことを言っています。つまり、「大人になる」、「自由になる」ということは、

他であったかもしれない自分を自分として受け入れ、この自分を選択して、自分に責任を持って生きていくことであり、そこから自分の人生が始まる

というような内容と解釈しています。(私なりの解釈ですが)

コンプレックスを乗り越えるのではなく、受け入れる

話を「竜とそばかすの姫」のクライマックスに戻します。

主人公のすず/Belleは、50億人の前で自らアンベイルして、本当の姿をさらけ出し、歌を歌います。

母が亡くなった以降、もう10年以上歌を歌えていない中、竜を助けたい一心で歌います。唇が、肩が、足が震えます。そして、声が出なくなります。周りからは、「ざまあみろ」という妬み・嫉妬の声も聞こえますが、多くの人がすずの姿に感動し、応援し始めます。

その時、昔の記憶が回想されます。

母が、あの見知らぬ子を助けに、川に飛び込んだシーンです。すずは、今までずっと「なぜ、あの時私を置いて、飛び込んだのか」ということがわからずにいました。そこには必然性はなく、偶有性があります。つまり、別に死ぬのは母でなくてもよかった、一人残されるのは私でなくてもよかった、という偶有性からくる負をずっと抱き続けて、それがコンプレックスになり、歌が歌えなくなっていました。

このクライマックスのシーンで、すずは「母がなぜあのとき川に飛び込んだのか」やっとわかります。それも、自分が今やろうとしている行動を通して、母の気持ちを理解します。それは必然であり、今まさに自分が同じ立場に立ってやろうとしていることであると気づきます。

そして、歌い、声が竜に届きます。

その後、現実世界で虐待を受けている兄弟は無事保護されることになります。その一件から帰宅すると、すずはお父さんと話せるようになり、再び現実世界で歌えるようになります。

まとめ

この作品を通じて受け取ったこと、感じたことは、コンプレックスは乗り越えるものではなくて、それも自分であると受け入れて、それでもなお、自分の人生に責任を持って、自分を生きることを選択するということです。

そして、本作品ではそれを可能にするキーとなっているのが、「仮想世界(ネット)」になっていて、それをきっかけに「現実世界(リアル)」で自分を歩いていく。そういった内容になっているところが素敵だなと感じました。

扱っていることは、ありきたりなことなのかもしれないですが、細田さんの「サマーウォーズ」のときもそうでしたが、リアルとネットの融合というか、ネットとリアルのどちらも大事な要素として、相互に影響し合ってヒューマンドラマを描いているところあって、そこに映像美、圧倒的な音の美しさが加わり、涙が出てくる、そんな素敵な映画でした。

以上

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