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栃木県のコロナ情報を発信している理由

きっかけ

僕がTwitterで栃木県の新型コロナウイルスの情報をツイートし始めたのは、正確な日付までは覚えていないが、だいたい20年3月ぐらいだったと思う。
そもそも僕がコロナに関心を持ったのは、今までの人生で唯一の大病として、以前重症肺炎を経験していたからだ。

今から遡ること17年、04年末に風邪をこじらせたところから重症肺炎になり、1ヶ月ぐらい入院した。人工呼吸器こそ付けなかったが、酸素飽和度が80%台まで下がり、両肺とも真っ白な影で覆われていた。最終的には大学病院まで移送され、即ICUへと運ばれた。そしてその後、2週間近く酸素投与の日々が続いた。コロナの基準に照らせば中等症Ⅱに値するぐらいだと思う。病院へ運び込まれた時は結構シリアスな状況で、わりと命に関わるぐらいまで悪化していた(ちなみにその時、三途の川の夢も見た)
その時の闘病から回復までの様子は、以前5分の動画にまとめてある。

そんな経験があったので、20年1月なかばぐらいから新型の肺炎が流行っているらしい、それも結構やばいものらしいと聞くたびに気が気ではなかった。当初は外国の話だと思い、日本に入ってきてからもまだ遠い話に感じていたが、やがて僕が見慣れた横浜の風景がよく映るようになり、そして栃木県内でも初めての陽性者が確認されるようになった。いよいよ自分の近くにも迫ってくるんじゃないか、そう思わずにはいられなかった。

最悪の事態を避けるために

かつての僕が肺炎で死線をさまよった時、当時はまだ20代だったからなんとか身体も耐え切れた。けれど40代の今ではそれもどうなるか怪しい。ましてや同居する老齢の両親がもしも感染したら、確実にアウトだ。肺炎のあの苦しみは老人の体力では、とても耐えられるものではない。自分が感染しそのまま終わりを迎えることになっても、それだけで済むならまだいいが、自分をきっかけに両親にうつし、最悪の事態を招くことだけは絶対に避けなければならない。20年の春が始まる頃にはそう強く思うようになった。

ならば、新型コロナウイルスについてもっと知らなければならない。特に自分が今住んでいる栃木県の情報をより詳しく知りたい。そう思い、日々発表される資料を読み、会見を観て、報道を聞いた。けれど当時の栃木県は今ほど情報が充実しておらず、知りたいものがうまくまとまっていなかった。そして、これは今でも変わらないままだが、地元メディアによる情報発信のスピードが今の時代では考えられないぐらいに遅かった。だから自分が知りたい情報は、自分でまとめた方がずっと速かった。
そんなもどかしさを感じていた20年3月頃、Twitterで情報を集めていると同じようにもどかしさを感じている人が多いことに気づいた。自分が住む県のことを伝えれば、まわりまわって結果的には自分を守ることにもなるんじゃないか。そう思い、僕がまとめたものをツイートするようになった。それが最初に始めた記者会見の文字起こし。そのツイートをきっかけとして、それまでは非常に細々と数人の知り合いがフォローしてるに過ぎないアカウントだったが、1ヶ月で一気にフォロワー数が1,000以上も増えたりした。

余談になるが、とぶっちアカウントの開設日が09年とやたら古いのは、新型コロナウイルスとは関係なく元々使っていたアカウントだったからだ。パンデミックが始まってから開設したアカウントなら、きっとアカウント名もそれなりに相応しい名前で始めていたと思う。成り行き上、元々使っていたアカウントで発信を始めたためにこの名前なのだが、いくらフォロワーが増えたからとはいえ途中で名前を変えるのもどうかと思い、結局今でもとぶっちのままでいる。ちなみにかつて存在した東武鉄道のキャラクターとは、たまたま名前が同じだけで全く関係はない。

始まり

日々フォロワーは増えていき、県内での感染も日々少しずつ広がって行った。そんななか茨城県の状況やグラフをまとめた画像をツイートしたものがまわってきて、栃木県でもこういうものが欲しいといった声を聞くようになった。今でこそ栃木県のサイトにはグラフやマップ等が充実しているが、当時は本当に何もなかった。そしてそれは地元メディアのサイトでも同じだった。
なら僕が作るかと思い、栃木県の発生状況をまとめたサマリーをツイートした。20年4月10日のことだった。

その後、サマリーは20年8月と21年4月に全面改定した。

その後も細かな修正は日々加えつつ、原則的に1日も休まず1年半後の21年10月、今に至る。

原則的にと書いたのは、20年6月に作らなかった日が数日あったため。ちょうど第1波が収束し、新規陽性者はおらず、かといって退院者もいない、数字の上では何の変化もない日が数日あり、その日は作成をしなかった。

理由

20年4月に最初に作った時は、まさか1年半後も毎日続けているとは全く思いもしなかった。分量的にも当初と比べるとはるかに多くなり、20年9月からは英語版・やさしいにほんご版を追加。

隣接する近県の情報も必要と感じ、両毛広域版、茨城県西版、沼田・南会津・白河・常陸大宮版を順次追加。

そして21年2月からは動画の形式でInstagram、YouTube、TikTokにも毎日投稿するようになった(3つとも内容は全く同じ)

金銭的にも名声的にも僕の得になることは何1つないのに、なぜここまでやっているのか自分でももはやわからなくなっているが、それでもその源は、最初から全く変わってはいない。
それは20年春の初めに僕が強く思った「自分をきっかけとして最悪の事態を招きたくない」ただそれだけのことであり、それが今も続けているただ1つの理由だ。

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