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《小説》書類上 〈最終回〉

 ネットの暗がりに接続することができたとしても、そこからさらに先へ進んで取引を行うとなれば、その壁は高いのだった。別の国へ行って調達することも考えた。けれども私はインターネットの暗部に身を置いてみたかった。おそらく《彼》が日常的に活動していたであろうその場所で時間を過ごしてみたかったのだ。それで何が得られるわけでもない。事の真相がそこに書かれているわけでもない。ただ《彼》と同じ体験をしてみようと考えた。探偵業をやめ、昼は近所の企業の事務方をしながら、夜は暗い世界の探索をした。それは心の躍る経験ではなかった。そこでは人間の欲望が可視化されていた。見たくないものを見た。見るべきでないものを見た。そこはカオスだった。数年間、通信におけるセキュリティや暗いウェブ世界の渡りかたを学んだ。その間、詐欺の被害にあった。逮捕の直前まで行ってぎりぎりのところでそれを回避したこともあった。何者かが私を暗殺しにやってこなかっただけ幸運というものだろう。

 銀色のアタッシェケースを買った。パーツがひとつ届くたび、その中にしまった。なぜこんなまわりくどい作業をしているのか。それが自分でもわからなかった。先のばしにしたいのかもしれなかった。決定的な時が来るのを遅らせたいと考えていたのかもしれない。そう考えてみれば確かに私は将来的に或るドアの向こう側で行われることのみを求めていたのではなかった。そこへ至る時間こそを求めていた。それは《彼》に思いを馳せる時間だった。届いた物の梱包をほどいている時、集まったパーツ同士を組み上げている時、黒光りするそれを眺めている時、私はまるで《彼》と共通の時間を過ごしているように錯覚した。もちろん《彼》は通信販売でこのようなパーツを購入したりはしなかっただろうし、それを人へ向けることを思い描いたりはしなかったと思う。おそらくしなかっただろうと思うが、本当のところはわからない。私の事務所へやってきた時にそのようなことを考えていた可能性がゼロだとは言えない。しかしいずれにせよ《彼》はもうこの世界に存在しない。

 私が通信セキュリティについて学んでいるあいだに例の容疑者は有罪となって物語は完結した。どういう理由で殺人を犯したかが明晰な言葉づかいで明らかにされた。どのような手段でどういうふうに被害者を殺したかが確かな筆致で語られた。そのストーリーは手際よく編集され、朝のテレビ番組によって全国と呼ばれる狭い範囲に向けて放送された。その説明に、より細かい描写をつけくわえたものがネットに流された。人々はそれらを消費した。また次の事件が起きたので世間の興味はそちらへ移った。私のところへも報道関係者がいくらか来た。かれらが私に語らせたがっていた言葉は要約すれば「犯人が無事逮捕されてうれしい」というものだった。私はだいたいそのようなことを、要求されるがままに語った。テレビ番組のスタッフがうちに来るときはたいてい空が青く晴れていた。

 もはや語るべきことはない。表面上、何もないようになった。語るべきことのうちでまだ語られていないことは水面下で漂っている。それを捕捉してかたちにするのが仕事、物理学における仕事のようなものかもしれない。あるひとつの状態にあるものを別の状態にまで変化させねばならないとした場合、それには力を要する。技術もいる。表にあらわれていないものを捕捉しようとして暗い水中へ潜り込んだとして無事に戻ってこられるとは限らない。水中における運動をとらえようとしていた存在がそのまま水面下で動きを停止してしまう場合だってあるのだ。いったん異なる領域にはいり込み、そこからまた元の世界へ戻ってくるためにもやはり小さくない力が必要になる。《彼》にその力がなかったとは思わない。ある種の情熱・エネルギーをあの撃たれた男はもっていたと私は考えている。強烈な何かを内側に抱えもっていて、その矛先の向けられたのが地下世界としてのネットの暗がりであったのだろう。もちろんこれは私があの社員たちの物語に乗った場合の言説である。実際どうであったのか、すなわち真実を探り出すためには、やはり潜らねばならない。表に出ない世界へ。裏側の領域へ入ってゆかねばならない。そうしなければ〈真実〉は得られないだろう。最後に記す挿話は私が裏側の世界へ入り込もうとする、その旅立ちの記録である。そしてそれは解かれた謎をまた謎としての魅惑的な領域に返還しようとする試みである。それは不可能だ。どうやっても仕方のないことで、どのような仕方もあり得ない。だが不可能という星をめざして旅することこそ、そしてその旅の記録を物語ることこそ、人に残された愉楽のひとつであり抵抗の方法だろう。



「この旅程の記録は時を超えて伝わるだろう あらゆる世界の祝福を寄越せ なにしろ夜の雲に乗るのだから!」



 それは何の変哲もない灰色のビルだった。いくつかの企業とサービス業の店舗が入っているようだった。私は銀色のアタッシェケースを持ってエレベーターに乗った。桃色の扉が音もなく閉まり、私は密室にひとり閉じ込められた。もちろんその中における私は完全な孤独であるわけはなく、どこかで警備員が私の立ち姿を監視しているはずだった。完璧に手入れされた制服をきたかれらが私の映っている映像をチェックして、なにか不可思議なところがないかを探しているはずだった。しかし表向き、このビル全体の受付というのは存在していなかった。セキュリティ面でチェックが入るとすれば各企業のエントランスにおいてということなのだろうか。それともこの建物に裏側の住人が来ることはないという想定から、そのような警備体制は敷かれていないのかもしれない。それならそれでいい。仮に受付の段階で私の持ち物が暴かれてしまった時はその場でことを構えるしかない。

 エレベーターを降りて廊下を歩いた。天井も壁もカーペットも灰色で統一されている。歩いても音が立たない。ゴミなど見当たらず、清潔に保たれている。スーツを着た女とすれちがった。おたがいに会釈をした。おたがいに相手が何者かを知らないまま、知らないがゆえに、とりあえず会釈をして通過する。私がこれからやろうとしていることを教えたら彼女は私のことを狂人扱いして上司に報告し、報告を受けた上司は適切な機関へ通報するだろう。そのようにして秩序を乱す異物を排除し、また元通りの日常に戻ってゆき、保険の新しい商品や最新の通信セキュリティを確保しつづけるための万全のサポート体制などについて客に語りに行くだろう。

 受付へ着いた。カウンターの向こうに若い女性がひとりで座って、コンピュータになにか入力していた。私は自分がこれから訪問しようとする相手の名前を正直に告げた。カウンターのそばにソファとテーブルがあって、そこで待つように言われた。もはや手荷物検査が行われる可能性については考えなかった。おそらく私は疑われていなかった。どのような嫌疑もかけられていなかっただろう。このビルはそのとき日常の秩序の中にあった。それを私が破壊しようとしていることについては弁解することができない。私はそれについて語ることができない。

 私の背後からだれかの歩いてくる気配がした。誰かは私の名を呼んだ。私は立ち上がって、今現れたその女性とともに歩き出した。ドアの目の前まで来たとき、女性は首からぶら下げているカードをドア横の機械にかざした。電子音が鳴って解錠されたらしく、私たちはそのドアを開けて中へ入った。

 灰色の廊下を歩いていく。窓はなかった。周りには壁しかない。私は女のあとについて社内を進んでいった。もう二度とここへ来ることはない。一度きりで充分だ。感慨はなかった。このような時間、ある意味では最期ともいえるこのような時間になにか情緒的なことや思弁的なことを言えばいいのかもしれない。が、私にはそういう言葉が浮かんでこなかった。

 女が足をとめた。私も立ちどまる。やはり灰色のドアが目の前にあった。女はそれをノックした。中から男の声が聞こえた。女がドアを開けるのかと思ったがそうではないらしく、われわれは黙ってそこに立っていた。

 ドアの向こう側でなにか物音がした。だれかが歩いてくるのか。こちらへ近づいてくる。私がドアをノックする必要はない。私が開ける必要のある鍵はアタッシェケースのものであって、それはすでに開いている。音はあまり聞こえない。ただ気配がする。いまドアの向こう側にだれかいる。解錠される音がした。

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