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《雑記》 散文形式 「である」

 である、である。この不思議な言い方。

 なぜ不思議だと感じるのか? それはこの言い方が流通するくらい固まるまで・できあがるまでの経緯を知らないからだろう。日本語の歴史の「である」にまつわる部分を知っていれば、「ああ、それはね」と言ってしたり顔で語ることができ、この言い方を不思議に思うこともないはずだ。そんな「である」の成立の経緯を調べてみた結果を以下にお届けする、わけもなくただこの由緒ある道具を手に持って、何をするでもなくもてあそぶことが今回の趣旨である。

 非常に便利である。じつはこれを使い始めたのはごく最近のことだ。普段ものを書くときはたいてい「だ」とか「た」の系列で終わらせるようにしていた。たとえば「彼は煙草を吸っていた」というふうに。

「彼は煙草を吸っていた。何の目標も目的も目当てもない時間を過ごしていた。生活するのが面倒になった。生きていたくなかった。彼はもはや抜け殻同然だった」

 かつては「である」を使うことにためらいがあった。なぜだろう。わからない。不自然だと感じるところがあったのかもしれない。自分はそういう言葉づかいでしゃべらないから? しゃべるのではなくて書くのだから関係ないのではないか? そもそも「なのだ」とか「ではないか」といった表現も普段、話し言葉としては使わないではないか。そのような表現はあくまでも書き言葉として文章の中で使うだけである。「ではないか」を使うのであれば、あるいは「であれば」を使うのであれば、「である」を用いることに何の不都合があろうか。ない。そうだ。ないのである。そこには不都合も不利益もない。ただ不可思議はある。どうしても文章を書いている途中で、その文の終わりを「である」で結びたくないと思うことがしばしばあったのである。とはいえ、「だ」とか「なのだ」という言い方を使いたかったのではない。それはあくまで消極的選択・消去法による選択であった。「である」を避けたいがために結局「だ」の系列に頼らざるを得なかったのだ。なぜそこまで自分は「である」をいやがってきたのか?

「『いったい何があったの?』と彼女は訊いた。彼は何も言わず、ただ首を振るばかりだった。彼自身にもわからなかったのだ。自分でもそれを言葉で表現することができそうになかった。『わからないんだ』と彼は言った。『いったい何があったのか。なぜこんなふうになってしまったのか。自分でもわからない。でもそれは多分あった。何もなければこういう事態になっていないと思うから。きっとそれはあったんだ』。悲しげにつぶやく彼のからだを彼女はしずかに抱きよせた」

 わりと学術的な文体・文章が好きだった。「わりと好きだった」というよりは「わりと学術的な」という意味である。カタカナあるいは漢字ばかりの術語がちりばめられた文章。もしくは単に漢語の多い文体。そういうものを好んで読んでいた、わけでもないのだが、自分のなかでいくらか優先順位をつけて自然とそういうものを選びたがる傾向はあったように思う。そういった文体では当然のように「である」が多かったのである。むしろ「だ」が少なかった。文末はたいていそれで終わっていたのである。ほとんどそれは定められた規準があるかのように「である」であった。実際、ルールのようなものは存在するのだろうと思う。自分のような門外漢の若輩者には都市伝説のようにも思えてしまうのだが、やはり学術的な文章については、「だ」におけるカジュアルな側面を強調して、それを忌避するとまではいかなくても敬遠し、それなりのフォーマルな文体を要求する・される場合がほとんどだったかもしれないと思われるのである。きっと各地の学舎で教授が門下生の論文の草稿をあらためては「だ」を削除していったのであろう。「これは違う。ここも誤りだ。ああ、こちらも間違っている。どうやら基本的な考え方から教育せねばならんな!」というふうに。

「教授は激昂した。文章を書く彼の態度は根本的なところで未熟だったのである。すぐさま教授は彼を召喚した。そして不思議そうな顔をして現れた彼のことを烈火のごとく叱咤したのである。『そんなことでどうする? 根本の部分できみの精神はたるんどるんだ。論文の提出を軽いものだと認識してやしないか? それはわれわれにとってハレの舞台にも等しいんだぞ』。彼は青い顔をして立ちつくしていた。『もういい。きみはクビだ』と教授は宣言した。『そんな、教授、待ってください』彼は狼狽した。『帰りたまえ』と教授は言った」

 自分の読書歴などたいしたことはないが、ひとまずそのなかで思い返してみるならば、「だ」を使っているのは在野の研究者といった性格のある人が多かったように思う。あるいはそれは自分が本格的・学術的な性格の本をあまり読み漁ってこなかった、というのもあるかもしれないが。ともあれ、仮に「だ」がカジュアル寄り、「である」がフォーマル寄りであることにすればどうなる? 自分はフォーマルでアカデミックな文体を好きなのか嫌いなのか。端的にいえば好きである。一時期、わからないながらもなぜか気になって読んでいたモーリス・ブランショの評論(の日本語訳)。カフカの、小説も好きなのだが、彼の仕事に関連して書いた研究論文のような文章(の日本語訳)。あるいは、もっと単純にいえば、さまざまなジャンルの評論。そういった文章の文体が好きである。そのような文章においてはもちろん「である」が常用されている。漢語も多い。そういう文章を好んで読んできたし、これからも読む。ではなぜ自分が文を書くときには「である」の使用をためらうのか? それはいま挙げたような文章を読むときに、どういうところに自分が違和感を覚えるかを考えることがヒントにつながりそうである。

 違和感のもとはシンプルな「である」というよりも「するのである」とか、「だったのである」とかいった言い回しにありそうだ。そういう文末に触れたとき、自分は何かむずむずするものを覚える。たとえば「鍵である」と言われるとき、そこに違和感はほとんどない。「鍵だったのである」も、まあ別に、まだ別に、それほどでもない。しかし「鍵をかけるのである」となれば、むずがゆくなってくる。「である」の前にくっついているものが増えるたびに違和感が増してくるのだろうか? 「だったのである」と「かけるのである」の違いはなんだろう。わからない。動詞だから? おそらく、自分ならそうは書かないから、だからだと思う。自分なら「鍵だったのである」までは、ぎりぎり、書くかもしれない。が、「鍵をかけるのである」とは、たぶん書かない。そういう場合は「鍵をかけるのだ」とする。そこにはきっと文体のリズムに関わる何事かが隠れている。自分がいつも頭の中で文章を音読していることにも関係しているだろう。「するのである」はたぶん書かない。本当は「するのだ」も微妙なところであって、多用はしない。「鍵をかけるのである」はもう、一編の文章に一回あれば多いほうである(違いがわかりにくいだろうか? 自分にとっては一目瞭然だ)。いったいなぜだろう? 語呂が悪いからだろうか。それはあるかもしれない。文を書くとき、推敲のとき、黙って音読してみてそれの響きが微妙だと感じるから書かない。それを選ばない。その文章がカジュアル寄りになることよりも自分好みの響きになることを優先する。自分にとっては文章における音・響きがとても重要である。

「『どうして?』と彼女は言った。『どうしてそれがそんなに大事なの? そこまでして選ぶべきものなの?』。彼はうなだれて、言われるがままになっていた。やがておずおずと語りだした。『でも僕にとってそれは、ゆずれないところなんだ。どうしてそうなのか。そんなことわからない。きっと僕の中の生理的な部分に関わることなんじゃないかな。身体に関わること』『しんたい? 精神じゃなくて肉体に関わることなの?』『うん。それはたぶん音楽に関係している』」

 アカデミックでフォーマルな文体を取り入れつつ、カジュアルな要素もまぜこみたいのである。そして自分好みの音でそれを満たしたい。文章を好きな音で満ちあふれさせたいのだ。そうすることが実際にできればもう文を書かなくてよくなるかもしれない。でもそんな日は来ないだろう。ひとたび好みの音楽を味わえば、また後日それを聴きたくなる。ほかの似たような音楽も聴きたいと思うようになる。そしてまたもう一度同じ音楽を聴く。今度はより一層その深みへと耳が降りていく。自分のみる世界はこのようにしてひろがってゆく。

「彼はひとつの夢をあきらめた。そして別の夢をみはじめたのである」

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