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《小説》文体練習  カフカ 逃走 リズム

 それが謎だった。どうしてもわからないものが頑として僕の目のまえに存在していて、なにをするにしてもその謎が邪魔をしてうまく生活ができないのだった。謎がなければうまく生きてゆけるかと問われればそうでもないのだが、でも僕の生活におけるさまざまな障害のうちでそれこそが最も大きくて硬いものであるのは間違いないと言うことはできる。なにしろああいうことをされてしまっては常人はとまどうばかりだろうし、僕だって動揺した。これで自分の人生は終わりかと思う瞬間さえあった。結局終わりではなかったし、むしろそれは始まったということすらできるのかもしれないが、そのような始まりは僕の歓迎するところではなかった。

 とにかく手続きをしなければならぬということで役所へ行った。窓口では偶然僕と同年代の女性が応対してくれた。だから僕は嬉々として書類への記入を行なった。女性は自分から見て逆さまであるにもかかわらず書面の欄のひとつひとつを指さして、そこに記されている細かい字の列を指でたどりながら丁寧に説明した。僕はその様子にまったく脱帽し、ひとつたりとも誤りを生むわけにいかないと思って集中して記入していった。氏名からはじまって職業・収入・自分が訴追されていることに対する所感までをも書き入れる必要があった。なかなか長時間にわたる記入であった。女性は投げ出すことなく、ひとつひとつ声に出して確認しながら説明してくれた。おそらく僕に恋しているのだろうと思ったが、僕はその女性の鼻の形がどうも気に入らず、申しわけないが断るほかないと考えていた。彼女のほうから僕の連絡先を聞いてくることはなかったが、そもそも僕の個人情報は彼女の手の内にあるのだった。いつか僕の平穏な日々が帰って来たときにかならず彼女は連絡してくるだろう。そのときにそなえて今は僕から彼女への干渉をひかえるべきだと思ったので私的な質問はやめておいた。

 書類を書き終えたときには夕刻であった。別の窓口で職員へ向かって泣きながらなにごとか訴えかけていた男もようやく帰った。彼にはどうやら語りたい物語があったらしく、職員の手からちり紙を補充しながら延々といまの職場におけるハラスメントの様相を描写していた。そのあいだ職員はうんうんとうなずいているだけだったと思うが、僕のほうでも記入および彼女とのコミュニケーションがあったので詳細までは確認できなかった。書き終えた書類を彼女が持ち去ったあと、ひまを持て余した僕は手近にあったボールペンとメモ用紙を使って先日みた夢の中の鳥のすがたを描いていたのだが、その鳥がどうにかして紙の外へ飛び立とうとするのであわてて上から黒く塗りつぶした。

 彼女がコピーをとり終えて戻ってきた。僕は彼女に向けて微笑した。それに対する反応は彼女に見られなかったが、他の職員の目もあるため仕方なかっただろうと思う。僕は彼女から原本の書類を受け取ると立ちあがって彼女に礼をした。

 帰るために廊下を歩いているとき背後でざわざわと人の声がした。僕は気にしないで歩き続けたが、だれかが僕の名前を呼んだので足を早めた。「待ってください」とだれかが言った。僕はいよいよまずいかと思って駆け出した。ちらりと振り返ってみたがやはりネクタイを締めた男たちが連れ立ってこちらへ向かって早足で歩いて来るところだった。僕は走った。建物の外へ出て駐車場の自分の車をめざして駆けた。ふとなぜ自分は逃げているのだろうと思ったがそれを考えている暇などなかった。自分の車、黒い四角い箱のようなボディの普通車に乗ってすぐエンジンをかけた。アクセルを踏んでふかした。シートベルトを締めていると建物の中から男たちが大挙してこちらへ走ってくるのが見えて僕は焦り、急いで車を発進させた。いったいなんで彼らは追いかけてくるのだろうか? そんなにもひどい記入漏れが見つかったのか。あるいは僕がある種の詐称をしたことがばれたのかもしれない。

 車道へ出てから一気にエンジンの回転数を上げて僕は走った。つまり僕のあやつる車が走った。もうだれも追いかけては来れまい。人々は僕の後ろへ消えてゆき、ただ僕は自分の思いどおりに道を進むことができる。どこへでも行ける。だから今すぐ行く必要もないのだと考えてスーパーマーケットへ寄った。そこで惣菜をいくつかとビールを買って、駐車場の自分の車の中で食べた。腹ごしらえのあと、さてどうしようかと考えたもののうまい策を思いつかなかったのでとりあえず車を出した。どちらでもかまわない、ただ進みさえすればいいと考えてでたらめにハンドルを切った。トンネルを抜けて海岸沿いの道路を走った。窓を開けて速度をゆるめ、潮のにおいをかいだ。背後からクラクションを鳴らされたのでふたたび加速した。

 僕はだいたい引きこもりだった。ニートだった。大学をやめてからというもの、時折思い出したようにアルバイトをするほかはひたすら家にこもるか図書館に行くか、そのどちらかだった。なにをするわけでもなく何のためでもなく本を読み、時折思い出したように文章をノートにこつこつ書くほかはひたすら寝るか煙草を吸うか、そのどちらかだった。友人はいなかった。いたのだが、自分から縁を切った。そいつの眉毛の形が気に入らなかったのと、読書の趣味が絶望的に合わなかったためだ。

 時間があれば哲学的なことを考えはじめるのがひとという存在だから、僕もやはりそのようなことを考えはじめたものの、すぐに考え終わった。なにひとつ結論など必要ない、という結論に達したのだ。だってそうだろう。どんなに絶対的真理を探したところで、どんなにすべての起源を探し求めたところで、どうせ宇宙の外のことをわれわれは知らない。知ることができない。考えたところで無駄なのだ。だから僕は考えるのをやめた。女の子のことを考えるほかはまともにものを考えるということをしなくなった。読書はただ快楽のためだけに行なった。気に入らない文体の本はすべて捨てた。それでだいぶすっきりした。一時は好きな文章をノートに書き写したり通読後に再読・熟読などしていたのだが、それも一時だけで、けっきょく単に読み通すだけになった。思案・思索とは縁のない読書だった。それでも別に論文の提出を迫られているわけではないのだからかまわないのだった。なにか努力しなければ、なにか実りのある行為をしなければ、なにか意味のあることをしなければと思うから人は破滅するのだ。意味を求めてあがくから泥に足をとられて沼の底へ沈んでゆくのだろう。僕はそのように無駄なあがきをしないことに決めたのだった。

 あるとき、つまり何度目かのオーバードーズのあとで好きな本を胸の上に乗せて横になっていたとき、ドアをだれかが叩いた。うちのドアのチャイムはこわれている。うるさいので僕がこわした。どうせ何かの勧誘だろうと思ったから無視しておいた。だが驚くべきことにがちゃがちゃとドアノブが鳴らされた後、そのだれかは何かをドアノブに差し込んでまたがちゃがちゃと音を立てた。ドアが開いた。僕は驚いて本を床に落としてしまった。ベッドから降りて立ちあがろうとしたら目まいがしたので座り直した。だれかが僕の名前を呼んだ。それは確かに僕の氏名にまちがいなかった。男が僕を呼んでいた。見知らぬ男性だった。スーツを着てネクタイを締めた男で、黒い鞄をわきに抱えていた。手には小さな封筒らしきものを持っていた。僕はその場で床に置いてあるビール瓶を投げつけてもよかったのだがそうはせず、その封筒の中身は何なのかを確かめる作業を行なってみてもよいと考えた。なぜならその男は室内へ向かって、ということはつまり僕に向かってその薄い茶色の細長い封筒を差し出していたからだ。僕はいかにもわかっているというふうを装って男のほうへ歩いて行き、封筒を受け取った。すると男はすぐに帰る、と思ったのだがそういうわけでもなく、僕の顔をじっと見ていた。僕も男の顔をにらみ返した。それはまったく不思議なところのない顔で、いかにも日々の仕事に疲れて結婚にも後悔している中年男性といった感じで、その封筒を手渡すという任務を終えたからにはさっさと帰ればいいものをまだその場にとどまっているのだった。僕はここまできたら意地でもなにひとつ語らないぞと思って無言で相手を見ていたのだけれども、まったく男が喋らないので飽きてしまって室内へ戻った。ベッドに腰かけて封筒を破って開けた。その様子を男は見ていたらしく、僕が読んでいるのを確認したらついに外へ出ていった。

 いよいよその時が来たと思って僕は立ち上がって部屋の中をぐるぐる歩きまわった。そのようにしたからといって何かが進展するわけでもなく思考がうまいぐあいに展開されることもなかったからふたたびベッドに腰かけた。煙草に火をつけて吸った。これからどうすれば良いのか。いい案はなかった。僕はすでに破滅への道を進みはじめていることが確実のようだった。どうもこのままではよくないらしい、と考えていろいろ策を練ってはみたが、状況を突破する秘策は僕の頭からは発見されなかった。どうであれ書類はこうして来てしまった。受け取ってしまった。もう戻れない。状況は開始されている。どうにでもなれ。そう思って僕はまた元の堕落した生活を続けることにした。

 それからというもの、ことあるごとに僕は召喚され、さまざまな書類への記入を求められるのだった。もちろん僕はそういった求めにこころよく応じてきた。取り調べにも進んで参加した。うちの家具がひっくり返され、PCの中身があらためられ、親兄弟の中身も点検された。いろいろな検査が現在行われている最中だということで、まだ僕は収監されるには間がある。だからまた元の堕落した生活を続けることにした。酒を飲み、煙草を吸い、たまにアルバイトをし、女の子に連絡をとり、本を読んだ。おおむねそのくり返しだった。そのようにして10年余りが過ぎたのだったが、いよいよ手続きをしなければならぬというので役所へ行ったのだった。その帰り、事故にあった。

 僕はまったくけがもない状態だったので外へ出て、相手の車へ駆け寄った。すると運転席の女性はハンドルに頭をもたせかけてうめいていた。これはまずいと思ったのでその女性を引きずり出して自分の車へ乗せ、病院へ走った。そのあいだ女性はなにごとか通常の言語でないことを喋っていたのだけれども僕にはまるで理解できなかった。彼女は黒い長い髪を垂らしてドアにもたれかかっていた。病院へ着いたらあとは医師たちにすべてをまかせた。問題は医師たちが僕の名前を聞いてしばらくしてから、きっとデータベースに接続して確認をとってきたのだろう、僕も中に入ってくれと言い始めたことだった。僕は病室の雰囲気が好きではないので丁重に断った。医療器具の美しさについては昔から思うところもあったのだが、入院となると話は別で、急いで僕は外へ出た。やはり医療スタッフたちはその白衣をきらめかせながら追いかけてきた。受診料の支払いを求めるために患者を呼び出すその呼びかたで何度も僕の名前を呼びながら駐車場までもぞろぞろと白衣の集団が歩いてきた。僕は僕でかれらが走らないのをいいことに適度な速度で自分の車へ戻った。僕がシートベルトを締めるのに手間取っていたら医師たちが僕の車の窓をたたき始めた。もうこればかりはしょうがないということで僕はアクセルを踏み、車を発進させた。だれかが叫び声をあげたようだったが僕には僕の都合というものがあるので勘弁してもらうほかないのだった。

 何人かひいたかもしれないが数えるほどで抑えられただろう。僕はふたたび逃走をはじめた。もうどこへでもいいから行けばよいと考えていた。移動することこそが必要だった。場所はどこでもよかった。桜の咲く湖のほとりだろうが霧深い渓谷の奥だろうがとにかく目的地はどこであってもよく、とりあえず移動してゆけばどこかへたどり着くだろうと考えてひたすら車を走らせたのだが、すぐに燃料が尽きたのでスタンドへ寄った。

 そこにほかの車はなかった。店内は暗く、ガラス越しに中の様子を確認することはできなかった。湿った風が弱く吹いていた。雨が降るかもしれなかった。灰色のコンクリートの上に僕は立ち、手持ちの現金を確認した。入れられる最大限の燃料を入れることにした。ノズルを車の穴に差し込んでトリガーを引き、燃料が流し込まれる音を聞いているうちに背後でなにか別の音がするなと思ってふり返ればスタンドの従業員がほうきで掃き掃除をしているところだった。僕はまた車が燃料を食う音に耳をすませたが、なぜかそのスタッフはこちらへ近寄ってきたので僕は警戒を強めた。「なにか?」と僕は言った。帽子をかぶった従業員はほうきを両手で持っている。彼はもちろん僕の名前を呼んだ。やはり、というべきか、まちがいなくそれは僕の氏名だった。ふたたび僕は「なにか?」と言ってみた。すると相手は「憶えてますか?」と言った。僕の記憶はところどころ抜け落ちているから、どこかで会っているのに僕が忘れているだけという可能性もあるのだが、そのように僕の記憶について説明したところで相手はそんなものに興味はないだろうから説明はせず、「いいえ」とだけ答えた。「なぜですか?」と男は言った。なにがです、と僕は言った。何のことについて「なぜ」と訊いているのか。「なぜ憶えていないんですか」と男は言った。なぜも何も、僕は自分の思うとおりにこれを憶える・これは記憶しない、などと取捨選択しているわけでなく勝手に・自動的に記憶は積載されてゆくし更新されていくのだからそのようなことは僕の知ったことではない。「恥ずかしいと思いなさい」と彼は言った。そして僕の手を、トリガーを握って今まさに燃料を放出しているノズルを保持しているほうの僕の手をつかんで、それを、通称レギュラーと呼ばれる燃料を車に流し込むためのノズルを強引に奪い取って、ノズルの先端を僕のほうに向けた。それがまったく謎であって、いったい僕がどのような破壊行為をすることによってこの男がこういう振舞いにおよんだのか。しかも速やかに自分のポケットからジッポ型のライターを取り出したことを考えると以前から計画していたのだろうか。この場合、人々はどちらの言い分を信じるだろうか。いずれにせよ僕の言い分はもうない。この男の行動によって僕はもう語ることができなくなった。沈黙。すなわち僕が謎になった。

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