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《小説》書類上 〈第2回〉

 階段を降り切って左に曲がれば、簡素な金属製のドアがあった。いかなる装飾も標示もない灰色のドアを開けて、私はそのビルの中に入った。左右に廊下が伸びていた。片方は行き止まりになっているのが見えた。背後でドアが閉まる。その重い音は冷えた空気の廊下に響きわたった。私は進むべきほうへ歩きはじめた。

 私の事務所へあの男が入ってきたとき、彼は私の生活の範囲内へ入ってきたことになる。私がつまらない習慣と平凡な方法で築きあげた秩序のなかへ侵入してきた。過去の私があちこちへからだを接触させながら、そのたびにやわな部分をかばって傷をつくりながらどうにか建設しおおせたこの凡庸な生活という箱のなかへ彼は入ってきた。私のドアをノックし、開けられたドアのまえで一瞬ためらいながらも思い切って私の部屋のなかへ踏み込んできた。その直後に彼という秩序は崩壊し、同時に私の生活も転落への契機を得た。われわれは誰かをうらめばよいのだろうか、と私は歩きながら考えた。理不尽に思える破壊を世に訴えるため、証拠集めに奔走すればよいのだろうか。廊下は長く続いている。だれがどのように殺したか。そしてなぜ殺したか。それらを明らかにすれば私たちは救われるだろうか。廊下は突き当たりで左に曲がっていた。

 歩いてゆく途中にいくつかのドアがあった。目当ての社名は見つからなかった。話し声の漏れ聞こえてくる扉があったけれども私が通過する直前に声がやんだ。じわじわと蛍光灯が地味な光を廊下に落としていた。中ほどにエレベーターのドアがあった。そのまま私は通りすぎてとうとう突き当たりまで来た。そこにあるドアを開けたら外だった。昼の明るい空の下、となりの建物の壁とブロック塀だけが見えた。私は何かが起こるのを待ってみた。ときおり車の走行音がするほかは静かだった。扉を閉めてなかへ引き返した。エレベーターの上昇ボタンを押した。

 私こそが殺害者だと思われている可能性は低いとしても、ある種の関係者候補であることにはまちがいないだろうと私は考えた。なんらかの仕掛けなり手引きなりをほどこしてあの男を最期の部屋すなわち私の部屋へと招き入れた、そのように私のことを刑事たちが見ているとしてもおかしくはない。いくら私が関連のない存在であることを力説してもその説得力はとぼしいものだろう。なぜなら私の内面は他者から見えないし、私のこれまで経験してきたこと・会ってきた人物の記憶はどこかに可視状態で蓄積されているわけではないのだから。それらが見えないからこそ、見える記録にかれらは当たる。私がだれにどれだけの金額を支払ったか。私がいつどこにいて何をしたか。私などはどういうわけかそのような膨大な些細なデータの集積について思い描くだけでめまいがしそうな心地になるが、かれらはそうでなく、その微細な情報の群れのなかに分け入ってゆくことこそ刑事たちの本領を見せられる作業なのだろう。無意味であるように見える数列の中から別の要素と結びつく情報を抜き出してそれを私に突きつける。この日この時あなたはここにいましたね。あなたは誰々と会いましたね。それはなぜですか? それは何のためですか? あなたはだれですか?

 エレベーターの扉は音を立てずに開いた。私は乗り込んで二階のボタンを押そうとしたが無理だった。それは奇数階にしかとまらないエレベーターだった。三階のボタンを押して私は待った。

 警察内部で私が書類上どのような扱いを受けているか、無論知らされることはなかった。だがどうみても私は重要参考人であり、かつ被疑者のひとりだった。私は疑われる側・問われる側の存在だった。刑事たちはくりかえしやって来たし、報道関係者も初めのうちは来た。かれらは瑣末な世間話から核心をつくかもしれない質問まで多くの言葉を私へ向かって投げた。そういった言葉は私という沼のなかへ落ちればそのまま沈んでゆき、新たな枝葉となって浮かびあがってくることはなかった。なにしろ私はかれらの問いに対してただの白い紙のような存在であり、何を提示することもできなかったのだ。ゆえに記者や刑事はおそらくほとんど収穫のないまま帰路について、自分のデスクで余白の多いメモを片手に物語を捏造しただろう。なにかしら仮説を創造することがかれらの仕事だろうと思う。私は問われ、そして書かれた。事件が解決されていない以上、これからもまだ私は書かれうる。

 エレベーターのドアが開くと中年のスーツ姿の女性が乗り込んできた。私は降りた。三階の廊下は一階より明るかった。電話の着信音が聞こえ、とだえた。人の話し声は聞こえてこなかった。案内図のようなものがないか、あたりを見回したが、ないようだった。とりあえず私は歩きだした。そのフロアの扉にはどれも小さな表示板がついていた。そこに書かれている名を読みながら私は歩いていった。じきに非常階段へ至るドアのまえまで来た。エレベーターまで引き返し、反対方向へ向かって同じようにした。廊下は途中で曲がり、もう少し続いていた。しかしもうドアがなかった。私は迷った。エレベーターで五階まで行くか、階段で二階へ降りるか。私はふたたび引き返してドアを開けた。非常階段は白いペンキの塗られた鉄製のものだった。細い手すりを私はつかんだ。風が私の服をあおった。

 問うことは投げることだ、と私は考えた。風で飛ばされてゆきそうな軽い言葉であれ、あるいは沼の底へと垂直に沈みかねない重い問いであれ、相手に向かってそれを投げる。投げられたほうはかわして逃げるにせよ正面を向いて待ちかまえるにせよ、問いを受けとめざるを得ない。逃げても逃げられない。投げられた問いは光のようなものであって、いかに身をかわそうともがいたところで逃れられるものではない。かけられた問う言葉は顔や背中を雨のごとく濡らしている。かわしたと思えるのはただとるに足らない質問に対してとるに足らない答えを瞬時に与えてわきへ退けているだけなのだ。問うことは簡単だ。難しいのはどのような問いを立てるかである。

 刑事たちは明らかで確実な答えをほしがる。記者たちは見やすくて醜い話を欲する。それらは表層的な問答がもたらすものだ。社会的生活を送るために、その秩序を維持するためにもそれらは必要になる。毒をなめることで薬になる。そして薬の効果の説明があれば薬の効果はなくてもいい。ただその薬の調合や説明は私の役目ではないということだ。なぜか? 水面に浮くような言葉は私の奥底の泥をすくってくれないからだ。私は仕方のない人間であって、日々泥を呑み込んでからだの奥へ沈めている。折に触れて適当な道具でかきまわしてやらなくてはいずれ泥は固着して、かさを増し、いつか私は石になる。必要なのは深く降りてゆく問答だ。だれが・こういう理由で・これをした、そのような説明は私にとっては不要である。私は降りて行かねばならなかった。

 衣服をなでつけることで強風の名残をはらい落とした。二階も三階と同じような間取りで、同じような静けさだった。同じように廊下の端から端まで歩いた。なにを見つけることもできなかった。私は時間の使い方をまちがえているように感じたので、近場のドアをノックした。返事はなかったがドアを開けた。室内では四人ほどの男女がコンピュータの画面を見ていたと思われるが、いまは私を見ていた。われこそは道化、と自分に言い聞かせて私は聞きたいことを訊いた。すると「地下ですよ」とドアに最も近い女が言った。私はエレベーターのボタンの配列を思い浮かべながら「地下?」と言った。



「すると最期に被害者と会話したのはあなただったわけだ。彼と初対面のあなた」そう刑事は言った。

 私はうなずいた。次に出てくる言葉をだれもが予想できているのにまだそれが発言されない時間の雰囲気が私は好きではなかった。考えてみれば雰囲気とは人からも醸成されうるものだ。その場の状況やそこにいる人間たちの表情・言動、過去と今と未来のそれらのあらかたが何となく人々のあいだで反射しあって空気ができる。たとえ沈黙が保たれていようとその中にも言葉はある。ただ言われていないだけで言語の応酬が行われつづけている。その無言の語の往来が私は苦手だった。だから言われるより前に「証拠はありません」と私は言った。というと? そう刑事が訊いた。

「彼は最期の時、なにも言わなかった。私になにか言伝を頼んだわけではないし、秘密を隠したロッカーの番号を教えたわけでもない。無言だった。沈黙していた。私だけがそうであったと知っている。ただし、証拠はない」

 なるほどね、と刑事は言った。「ないように見えるものを探し出すのもわたしらの仕事ですけどね」

「ないものはない」と私は言う。「ないものをあるように見せないでくださいよ」

 刑事は笑って「いや、まったく」と言った。どういうところがおかしいのか私にはわからなかった。「過去に目を向けてみたらどうです? なにか思い当たることはありませんか? たとえば実は事前に被害者からの電話をもらっていたとか。いくつも依頼や相談があるなかで不審なものがあれば目につくんじゃないですか」

 私は事務所の机に置いてあるノートを思い浮かべてみた。そこに案件に関するメモを書き連ねてある。「なかったと思いますけどね」自信はなかったが、直近ではせいぜい間違い電話くらいしか詳細不明の連絡と言えるものを思いつかなかった。

「では未来に目を向けるとどうなります? この件に関してだれかから連絡が来るかもしれませんね。あるいはあなたが誰かに連絡しますか?」

「だれにも連絡しないし、だれからも来ませんよ」

「まだわかりませんよ、未来のことはね。だれにもわからない。それにあなたは探偵だそうじゃないですか。この一件を解決したくはないですか? 関係者のだれかしらに連絡をとるおつもりじゃないんですか? まだわたしらの知らないどこかの誰かに」

「解決はあなたがたの仕事でしょう。一介の私立探偵に邪魔されたくはないはずだ」

「いやいや、歓迎ですよ、すべてが明らかになるんであればね。もちろんこちらにもいろいろと規定がありますので情報の横流しなんぞはできかねますが。しかし気になりますよね、あなただって。いったいどこのだれが、なんだって殺されてしまったのか。いったいなぜスナイパーなんてものが召喚されたのか。不可解きわまりますよね」

 気にはならない、と私は言った。気にはならない、けれど? と刑事が言った。

 私は自分が心的外傷を負っている可能性について考えていた。この時点では遺体の様子がふと脳裡によみがえってきたり名も知らぬ男の人生が目の前で途切れた瞬間を思い返したりすることはなかった。耳の少し上から金属の塊が頭のなかに入ってきた男のうつろな目をわざわざ思い出すようなことはしなかった。しかし通常の生活においてなかなか見る機会のないものを見た時それが傷になる、という事態はじゅうぶん起こりえる。そのように普段から考えていた。いまそれが起こりつつあるとして何の不思議があるだろう。いまこうして殺人行為をめぐる対話を行なっているあいだに私の奥でじりじりと傷が深まりつつある可能性がないとは言い切れなかった。探偵業務をこなしてきたこれまでの経験からいって、それは当人の気づかないうちに進行する。手を振りながら問題ないですよと周りに応えていた関係者があるとき急にダウンすることはめずらしくなかった。その熱は音もなく見えやすい兆候もないままに上昇し、気づいたときには耐えられる閾値を超えてしまっている。閾値を超えたからこそ気づくのだ。私がそうならないと断言することはできなかった。人の死体を見るのは初めてではなかったし殺された人間を見たこともあったが今回、だれに言われるでもなくトラウマのケアを意識しはじめた。それ自体からしてすでに傷ができつつあることの証左かもしれなかった。仮にそうだとして私に与えられる選択肢はふたつあると考えた。離れるか、飛び込むか。私は後者を選んだ。調べてみてもいいかもしれない、と私は言った。不思議なことに刑事は顔をほころばせた。



 われわれは向かいあって腰かけていた。相手が喫煙者でないため、私は煙草をひかえた。男は血の垂れなかったほうのソファに座り、私は血の拭き取られたソファに座っていた。音を立てるものは私と彼以外になかった。相手はひざの上で両手の指を組み合わせ、背をまっすぐに伸ばして私を見ていた。男が私に問いかける。私は答える。男はその答えをつかまえてながめる、そしてまた問いかける。対話はそのようにして進んだ。彼の質問は私をきっかけにしてあの撃たれた男に迫るためのものというより私へのものだった。私を明らかにするためのものだった。私は何も答えたくなかった。彼は私の生活のなかへ懐中電灯の光を差し込んでそこかしこを照らそうと試みていた。しばしば明確な数字や名前を求めた。そのたびに私は記憶の曖昧さを言い訳にした。われわれの声は私と彼とで挟んでいるテーブルの上に蓄積していった。やがて音声をためこんだ携帯レコーダーは彼に回収され、ひとつの物語が執筆されるだろう。その一端に私の話も差し込まれるのかもしれない。あるいは重要参考人の、容疑者の、不可解な人物像を描きだすフィクションが書かれるのかもしれない。私は何も話したくなかった。記者は質問をやめなかった。役所に提出する書類を書かされているような気分だった。「もういいでしょう」と私は言った。

 記者は無言でまばたきをくり返した。

「私のプロフィールをそこまで詳細に述べる必要はないでしょう。あなたの記事にとって、あの事件に関して、私という人物の具体像を描きだすことはたいして重要ではないと思うんですが」

「なにか」と記者は言った。「調べられたくないことでもおありで?」

 私はため息をついた。これだ、とつぶやいた。「なにもないところに煙を見いだそうとする。報道はそうやって成り立っているんですか」

「なにかありそうなところは掘り下げますよ。どこかにあるんですか? 掘り下げられたくない場所が。聞かれたくないことが」

「なにもありませんよ」と私は言った。

「ではお答えねがえますか」と言って記者はインタビューを続けた。私はしかたなく答えつづけた。

 私は昔から公的書類に求められる正確さとその項目が苦手だった。氏名・住所・本籍地・年齢・職業・家族の名等々。さらに書類の目的に応じた項目がこれらに追加される。まちがえることは許されない。誤りは厳密に訂正されねばならない。それらを書く必要にせまられるといつも書類を机の上にほうりだして数日間見ないふりをするのだった。なぜ自分がそのような書類を苦手とするのかはわからない。私は規定されたくないのかもしれない。固定されたくないのだろうか? 私は煙や幽霊のような存在でありたかった。不可視の、不定形の、どこにいるかもわからない存在としてどこにもいないようにして存在していたかった。それは不可能だった。だれに見られることもなく、だれに判別されることもない存在。それはある種の地獄のような生き方によっては可能となるのかもしれない。けれども自分がぜいたくに享受したがるごく一般的な文化的生活を続けようとするならば具体的で明確なプロフィールを固定させなければならなかった。私には幽霊としての生き方を実践する覚悟がないのだった。

 しばらく経ってからようやく記者が「少し角度を変えましょう」と言った。私は疲れていた。

「どう思われましたか、目のまえでああいった事態が起きて」記者は組みあわせていた両手を解いた。脚を組んでひざの上に両手を重ねた。「ショックでしたか?」

「ある程度の衝撃はありました」と私は言った。

「責任を感じますか?」

「いいえ」

「目のまえでひとつの命が失われたというのに?」

 ふいに私から言葉があふれてきた。「私にはどうすることもできなかった。予告めいたものがあったわけではないし、彼から助けを求める連絡を受けていたわけでもないんです。初対面だった。初めて出会って、そしてその場で撃ち殺された。撃ち殺した犯人の声や姿は確認できなかった。まったく予期せぬ時、予想だにしないところからそれは行われた。私たちの手の届かないところから、見えないところから銃弾が飛んできた。気づいたときにはすべてが終わっていた。終わってから気づいたんです。行われた後、取り返しのつかない時になってやっとわかったんです。これは殺人だと。彼は殺されたのだと。すでに彼の脳は破壊されていた。絶命していた。私が近寄った時にはもうすでに彼の自我は失われていた。私にはどうすることもできなかった」

「彼はなにも語らなかった?」

「彼はなにも語らなかった。私に救いの手を差し伸べてくれと叫んだわけでもない。事情を説明して暗殺者の居所を探ってくれと依頼したのでもない。黒幕の正体を明かしてくれと頼みもしなかった。彼が巻き込まれた事態を説明することはなかった。彼の物語を明かすことはしなかった。彼はなにも語らなかった。私には彼の話を聞くことができなかった。目のまえで彼は殺された。私の手は彼に届かなかったし、そもそも私には手を伸ばすという選択肢さえ与えられなかった。私にはどうすることもできなかった」

 お察しします、と記者は言った。

「私にできることはあるのかもしれない。これからさき。彼の物語を解き明かして世に説明することはできるのかもしれない。そうしなければならないでしょうか? それは私に課せられた義務かもしれません。私こそが最もふさわしい語り手なのかもしれない。彼のことを、あの頭を撃たれて死んだ男がその胸の奥に抱えていった真実めいた何事かを語りおろすにはこの私以外に適任者はいないのかもしれない。あなたはどう思いますか?」記者は軽くうなずいたように見えた。「そうでしょうか。私にできるでしょうか。そんなことが可能なんでしょうか? あの被害者の、あの男の、すでに失われてしまった物語を掘り起こしてふたたび語ることができると思いますか? 簡単な話ではない。難しい相談だ。たしかに丁寧に調査を重ねてゆけば、論理的・現実的にこれこれの理由で彼は殺されたと結論づけることは可能かもしれない。だからそれが何になる? 殺された理由を解き明かして、だからそれが何だというんだ? それが彼の物語となる? そんなわけがあるか」

 落ちついてください、と記者は言った。



 彼女がおかわりを頼んだ。バーテンダーは酒瓶を取りに下がった。「まだ飲むのか」と私は言ってみた。「なにか不都合でもあるの」と彼女が言うので私は「言ってみただけだ」と答えた。キックドラムの重低音がわれわれの腹と胸に響き、ハイハットの高音がわれわれの耳を痛めていた。メインフロアから踊り疲れた客がやってきて水を頼んだ。ペットボトルを受け取った男は彼女のほうをちらりと見てからまたスピーカーの近くへ戻っていった。この夜のDJはテンポの速い曲をよく流した。若者たちがDJブースを取りかこんで踊っていた。カウンターの周囲には私たちのような人と話したい者やただ音楽を聴きたい者たちが座って酒を飲んでいた。流れている音楽の、人の声の音域はしぼられているためにごく普通に会話ができた。私は何本目かわからない煙草に火をつけた。「がんになって死ぬよ」と女が言った。「それも悪くないかもしれない」と私は言った。「でも実際そんなことは言ってられないんだろうな。本当にそうなったら」「そうだよ」「うん」苦しいだろうな、と言って私は煙を吐いた。「あたしだっていつそうなるか、わかったもんじゃない」彼女のところへ新しいグラスが届いた。

「君はならないよ」と私は言った。

「勝手なこと言わないで」彼女は言った。

「言わせてくれ」と私は言った。女は少し鼻で笑った。

 どうやって死ぬんだろうな、俺たちは。そうつぶやいて私は後悔した。この話やめない? と彼女が言い、私が同意した。

「進展はあったの?」と彼女は訊いた。「協力している以上、何の甲斐もないと言うのはいやなんだけど」

 私は曖昧な返事をした。

「べつに詳細は教えてくれなくてもかまわないけど。興味ないし」女はバッグに手を入れて煙草の箱を取り出した。「ただなにかこう、進展があるのかないのか、それだけはなぜか気になる」

「物語の続きが?」

「それが続いているのかどうか。すでに終わったのか、まだ進行中なのか。続きがいったいどんな展開になっているかというのは実際そこまで気にならないな。ただまだ終わってないかもしれないと思うとなんだか落ちつかない」

 なるほどね、と私は言った。「まだ続いてるよ。でも君を巻き込むつもりはない。少なくともこれ以上は」

「いまさら」と彼女は言った。

 すまない、と私は謝った。ある意味では下調べのような作業を彼女にやってもらっていた。私が関係者だから動けば目立つ、ということ以外にも彼女がそういった作業を得意としていることが依頼の理由としてあった。書類の束・情報のアーカイブにアクセスしてめぼしいものを拾いあげたり、不要なものを切り落として母体をしぼり込んだりすることに関しては私より彼女のほうが適任だった。しかし情報を要求すればその跡が残る。だれかが余計な者の存在を憂いて始終監視しているとしたら容易に気づくだろう。いまならまだ言い訳の立つ範囲内だった。「潮時かな」と私は言った。「そう」と彼女は応えた。

「孤独な探偵を演じるわけ? これからあとは」

「役者には向いてない。脚本も書けない。ただの照明係だよ」

「どこにライトを当てればいいか、わかってるの?」

「わかってない。台本も渡されてない。アドリブでやっていくしかないんだ」

 ひどい舞台、と彼女が言ったとき、メインフロアから若者たちの嬌声が聞こえた。私は酒を飲んだ。煙草をふかした。煙が青や紫のライトを浴びてゆらめいて昇り、消えていった。



 電話をとってすぐ「またやったな」と相手が言った。その声の響きが受話器越しでもひどく懐かしく感じられて、私は声の主がいる職場に戻りたくなった。

「どれのことですか」と私は言い、受話器を持ちなおした。

「うちの名前をまた使っただろ。昨日電話があったぞ」彼は言った。「今度はうまくいきそうなのか。警察はどうだ。厳しくやられたか? だいたい目星はついてるのか」

「前にも言ったでしょう。質問はひとつずつ」私は苦笑いしながら言った。「どこまで知ってるんですか」

「どこっておまえ、おまえが警察に洗われてるってとこまでだよ。うちにも来たからな、サツどもが。根掘り葉掘り聞きたがってたが、おまえはそもそもよくわからない男だからな、当たり障りないことしか聞かせられなかったよ。おまえがどういう人間かなんて数年間いっしょに働いたくらいじゃわからんと言っといた。実際そうだからな。おまえはよくわからないやつだ。経理の女の子が言ってたんだぞ、おまえが辞めていく時、『結局わからないひとでしたね』って。どうなんだおまえ、もう少し歩み寄る努力ってやつをしてみても良かったんじゃないのか。人は変わらないなんてことはないぞ。知らんけど」

「まあ」私は返答に困った。「またそのうち飲みにでも行きましょう」

「世辞は使うな。俺に対してはな。仕事で嘘ばかり書いてるから、ほかで聞かされると腹が立つんだ」

 私は何も答えなかった。

「で、どうなんだ。やばいのか」と彼は訊いた。

 やばくないですよ、と私は言った。「被害者のことを思えば僕なんて全然やばくないし、恵まれている。でも被害者のことを思えば逆に相当やばいと言うこともできる。だってスナイプですからね。金も準備も技術もいる殺しだ」

「くり返しが本当に好きだな、おまえは。その男は何をやったんだ。金か。情報か。それとも女?」

「どうやら情報のようです。が、それが何にからんでいるかはまだ不明です。ことによるといま言った全部かもしれませんね」

 ふうん、と彼はうなった。「俺にはなにも依頼するなよ。できることはないからな。助けてやりたい気持ちはあるが、気持ちじゃ銃にかなわないからな」

「まにあってます」と私は言った。

「嘘を言うなと言っただろ。素直になれよ。たまにはひとに頼ることを覚えろ」

「依頼するなと言ったじゃないですか」

「言葉のあやみたいなものだ。わかるだろ」

「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ」

 そうか、と先輩は言った。「おまえのことをわかりたいとか、わかってやれない自分とかについて思い悩みはしなかったけどな。ただ俺はおまえという人間をわかってないということだけはよくわかっていたつもりだよ。どうすることもできなかったし、それについては後悔もある。ただとにかく不思議な人間がそばにいる、その近くに俺はいるということの無念だけは忘れずに日々かかえて過ごしていたんだ。俺はいつかおまえのことを忘れるかもしれないが、俺に刻まれたあの無念だけはいつまで経っても忘れることができないかもな。俺が俺を辞めることはしばらくできそうにないから、ずっとそれは残るだろうな」

 私は黙っていた。

「おまえという物語は俺のなかにも別バージョンとして存在している。しかもそれはまだ機能して、継続している。これからも続いていくだろう。おまえという実体とは別にな。俺がそれを読むんだ。俺がそれを書きつつ読むんだ。不可思議な男、気配の仄かなおまえという男の存在を思い描いて、場合によっては一喜一憂するわけだ。報せをもらったり、もらわなくても想像したりして、遠い場所にいるあいつはどうしてるかな、きっとこうしてるだろう、とか言いながらまた自分の日々に戻っていくわけだ。俺はどうせ読むなら紆余曲折経てハッピーエンドってのが好きだからな、バッドエンドはやめてくれよ。俺の読書の快楽のためにも元気でやれよ。わかったか」

 わかりました、と私は言った。



 暗殺者が平凡な日常を脅かす、しかもその姿は杳として見えない——。

 先日来、世間を騒がせている、スナイパーによる殺人事件。この残酷な暗殺事件に関して、本誌編集部に目をみはる情報が飛び込んできた。なんと殺人の行われた現場に居合わせたという人物A。この男性は飼い猫の足取りから浮気調査、はては密室殺人まで、あらゆる謎を解いてみせるのが仕事、私立探偵であった。彼は、一般企業に勤めていた被害者の男性と、いかなる関係にあったのか? 探偵の業務をまっとうする過程で思いがけず得た秘密とは? そして何より、暗殺者との関係は? この謎を解き明かすべく、筆者は謎の探偵A氏に、某月某日、接触を試みた。その模様を以下にお届けする。

 ——本日はありがとうございます。

「いえ、僕にできることならなんでもします。何なりと聞いてください」

 A氏は寡黙そうな印象ながら、本誌の取材に対し、終始協力的であった。この取材はなんと、殺人のあった現場、A氏の探偵事務所の一室にて行われた。その部屋から殺人の痕跡は消し去られており、恐るべき暗殺の跡をたどることは困難だった。銃弾の飛び込んできたと思われる窓の向こうを眺めつつ、筆者は私立探偵A氏へのインタビューを開始した。

 ——恐ろしい体験をされましたね。

「ええ、残酷な状況を目の当たりにしました。被害者の彼はおそらく探偵である僕に助けを求めに来たのでしょう。なにか途轍もない秘密を知ってしまって、それをよく思わない何らかの組織から狙われている、だから僕に助力を求めに来た。そうに違いない。ひょっとしたら警察が力になってくれなかった可能性も考えられます」

 ——あるいは、警察に言えない事情があったとか。

「かもしれませんね。だとしたら公的組織の上層部にまで魔の手が伸びていることになります。とにかく、そのままでは命が危ない、と。身の危険を感じて、いても立ってもいられず、彼は僕の事務所のドアをノックしたわけです。地獄の底からほんのわずかな光明、極細のくもの糸をつかみとろうとする思いでひとりの私立探偵のもとを訪れた。そうしたら……」

 ——すべてが終わってしまった。

「はい。それは起きてしまった。手の届かない距離から、僕たちにはどうすることもできない地点からの狙撃。一発の弾丸が彼の頭蓋骨を撃ち抜いた。その銃弾の痕は今も僕の部屋の壁に残っています。あそこです。あの抽象画をかけてある裏の壁に、スナイパーの残した弾痕があります。あのとき彼の人生は終わってしまった。ひとりの人間の生活が、今までなんの不思議もなく過ごしてきた時間がたった一発の凶弾によって、一瞬で破壊された。それまで蓄積してきたもの、培ってきたものはすべて無に帰った。そしてその瞬間から、僕は恐ろしい冒険を始めざるを得なくなったのです」

 ——調査を始められた。

「もう彼に未来はない。だとしたら僕が彼の代わりに立ち上がるしかないのです。彼の過去を探り、彼の最後の現在ともいうべきあの瞬間に至るまでの時間、いったい何が起きていたのか。それを見つけることが僕の仕事です」

 ——なにか進展はありましたか。

「まだ解決していない以上、詳細は伏せさせてください。ただひとつ言えるのは、彼はカーテンの向こう側をのぞき見たであろう、ということです。一般企業に勤めていた彼は、日頃から最先端のコンピュータによるシステムを相手にしていました。大学卒業後はその道ひとすじで、ベテランとして職場で尊敬を集めていたとも聞いています。二十年以上のあいだ、彼は腕を磨いてきたわけです。業界内ではすでに卓越した技術を彼は身につけていた。そんな彼が結婚生活の破綻をきっかけに、はからずも魔がさしたといってもいい行為におよぶのは、そう責められることでもないでしょう」

 ——ハッキングですね。

「そうです。といっても何らかの破壊につながるようなものではありませんでした。彼のやっていたことはあくまでも〈のぞき〉です。世界的企業のデータベースから町工場の図面まで、あらゆるところに彼の目はしのび込みました。盗み見たあと、その情報を対立する企業に売り飛ばしたりはしていなかったようです。セキュリティの穴を警告する意味で、匿名で通信を送ることはあったらしいのですが。ともかく、彼はプロのエンジニアとして働くかたわらで、凄腕のハッカーとして裏の世界で名をあげていったのです。欧米のいくつかの組織においても彼の名は知られています。そのなかにはテロ行為を実行したことのある組織も含まれてはいますが」

 ——そのようにハッカーとして活動していくなかで……。

「見たんです。隠されていたものを。見てはいけないものを。それが不意に転がり込んできた情報なのか、あるいは彼が求めに求めて探し当てたものなのかはわからない。ただとにかく彼は見るべきでない何かを見てしまった。そうにちがいない。あまたの数字と言葉でつくられた世界の中身、普段は分厚いカーテンによって隠されている向こう側、世界の暗幕の裏側を、彼は盗み見てしまったのです。そして、だから、彼は殺された」

 恐るべき〈真実〉を探偵は語る。

 ハッカーには二種類の活動の仕方があるという。その技術を悪用して、ある種の破壊工作や攻撃活動を行う、クラッカー。そしてその技術を駆使して、企業のセキュリティ・アドバイザーを務めたり、新しいテクノロジーの発展に寄与したりする、ホワイト・ハッカー。各々がデジタルな魔術を鮮やかに用いて、クラッカーは裏側から、ハッカーは表側からこの社会に働きかける。被害者は後者であったようだ。だが実はそれも表向きの話で、裏では被害者がどのような活動に取り組んでいたのか、本当のところを知るすべはない。編集部ではこの事件に関して、重要な事実を握っていると思われる探偵A氏の協力を得ながら、引き続き調査を行なっていく。

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