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映画レビュー:ヴイナス戦記(1989)~絵がすごい、動画がすごい、だけでは面白くならない、そこに必要なのは…

 1989年に公開されたものの大コケし、30年間、DVD化されずに封印されてきたという、安彦良和監督の長編アニメーション映画「ヴイナス戦記」。実は昔、単行本で最初の方を読んだ覚えがあり、正直、あまり面白くないなあと思って追いかけるのをやめてしまい、映画化されていたことも知らずにいたのだが、アマゾンプライムで無料視聴できたので、見てみることにした。

 というのは、40年前「機動戦士ガンダム」のキャラクターデザイン・作画監督を務めた安彦良和氏の圧倒的な画力とやわらかな線、筆で厚塗りしたような独特のタッチで描き出されるイラストに魅せられ、その後氏がギリシア神話を題材にした漫画「アリオン」の制作を始めると、単行本を買って熱心にその作品を追いかけたことがあったからだ。
 また、安彦氏が監督を務めた映画「クラッシャー・ジョウ」も封切られれると映画館へ見に行った。しかし、いずれの作品も、私の中では「ガンダム」に匹敵するような印象を残すものではなかった。絵は、確かによかったのだが…。

 それで、今こうしてネットでレビューなど書いていることもあり、あの、すばらしい作画をする安彦氏の作品を今一度視聴して、今の自分ならどう思うか、ということを記述してみたいと思ったからである。

ストーリー

 西暦2003年、巨大な氷解が衝突したことで可住惑星に改良できる可能性が生まれた金星。増大する人口を移住させるためテラフォーミングが実施され、2012年から移住計画がスタートする。
 それから72年後。金星はアフロディアとイシュタルという二つの勢力に二分され、終わりない戦乱が繰り広げられていた。そんななか、イオ・シティで暮らす少年ヒロは、レースチームに所属してバイクレース「ローリングゲーム」に参戦し、刹那的な戦いを繰り広げていた。そんなある日、イシュタル軍が市街地へ侵攻を開始。イオ・シティはあっという間に制圧されてしまう。
 そんな中、ヒロは日常を取り戻すため、レース仲間とともに戦いに身を投じていくのだった。

レビュー

 映画は、地球からやってきた女性TVレポーターがイオ・シティの酒場で「ローリングゲーム」に熱狂する人々を目の当たりにするところから始まる。このキャラクターは映画のためのオリジナルのようだが、異世界へ人々を導くためのガイド的な立ち位置として設定されたものだろう。だが、正直、まるでその役目を果たしておらず、地球人である彼女の視点からの「説明」がなされないまま、場面は主人公らが繰り広げる「ローリンゲーム」の場面へとなだれこんでいく。
 おそらくは、その圧倒的な描写力・作画力によって、迫力ありスリリングなレース場面を見せることで、映像によって何が行われているかを伝えよう、という意図があったのだろうが、状況を説明するようなセリフがほとんどないために、ただ、よく動く絵に目を奪われて「すごいなー」とは思うものの、登場人物の名前も、その関係性もよくわからないまま話が進んでいくので、だんだんと集中力がそがれて、ものすごく退屈になってしまうのだった。

 手描きアニメとしては驚異的な映像だが、主人公らが乗る一輪バイクのデザインがめちゃくちゃかっこ悪いことや、明らかに同時期の他のアニメ(AKIRA)に影響を受けたと思われる、廃墟感のある都市の風景、イシュタル軍侵攻からの展開の遅さなどもあり、絵はこんなにすごいのに、全然話が頭に入ってこない、というもったない状況が延々続く。ようやく終盤になって主人公が戦いに身を投じたと思ったら、あっという間に終わってしまい…という感じで、「絵がうまかったなあ」というほかには特に印象に残らない、というのが見終わった私の感想であった。

 そこで、なぜ「機動戦士ガンダム」ではあれほど魅力的に感じた安彦良和氏のキャラクターが、自身が原作で、監督として作り上げた作品では少しも心を動かす存在になっていないのか、と考えてみた。そして思い至ったのは、「絵がうますぎる」ことが災いしている、ということである。

 安彦氏の描くキャラクターは、その圧倒的な画力もあり、単なる人物画でなく、その人物の性格(キャラクター)が一眼でわかるように造形された、まさしくアニメの「キャラクター」である。彼の描いたキャラクターを見れば、その人物がどういう性格、どういう立場、どういう考え方、どんなふうに行動するか、というのがたちどころに掴める、そんな感じがするのだ。
 例えば、ガンダムに登場するザビ家の面々を思い浮かべてみてほしい。ギレンは冷酷、キシリアは利発、ドズルは豪放、という性格が、キャラ画に滲み出ているではないか。それは「ヴイナス戦記」で描かれているキャラクターも同様である。

 だが、そのキャラクターを使って別の誰かが脚本を書き、演出をして作品が出来上がるプロセスで、キャラクターの作者が想定していなかった、別の一面が描かれ、それが人物をよりリアルに、そしてより人格的に深みのあるものにしてくれる、ということがある。その瞬間、人物の性格や立ち位置をわかりやすく「記号化」したキャラクターが、一人の人間として動き出すのだ。アニメを見るとき、私たちはそうしたキャラクターたちの織りなす化学変化ケミストリーを楽しんでいるのかもしれない。

 ところが、安彦氏が自ら原作、監督を務めるこの作品では、そうしたキャラクターの印象の変化、人物像の深化は起こることなく、まさに氏が描いたキャラ画そのままの人物が、はじめから終わりまで動いていく。キャラクターに、見た目と言動のギャップがまったくないのだ。そうすると、私たちはそこに人格ではなく記号化された人間の形を見るのみになってしまうのである。
「ヴイナス戦記」はまさに、そんな、キャラが見た目から予測される通りの行動をする話になっており、その意味でも退屈きわまりない作品になってしまっていた。

 安彦良和氏の描き出す、すぐれて人間的に見えるキャラクターを、人格ある人間として物語の中で動かすには、化学変化ケミストリーをもたらす別の個性が必要なのだ、というのが私の結論である。「機動戦士ガンダム」において、それは富野由悠季監督であり、星山博之、荒木芳久、山本優、松崎健一という四人の脚本家だった。だが、安彦氏はそうした共同作業のアニメ制作よりも、単独で制作活動に携わる漫画家としての道を選んだ。そこに、化学変化ケミストリーは起こっただろうか。

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