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自己肯定感0から、100、時々90になれた私の自己紹介をさせてください。

初めまして!

私は大阪府で体と心のヒーリングスペースTOBIRA(https://www.tobira-door.com)で心のセラピストとボディヒーラーをしている葉月芳子と申します。

2021年、私は還暦になります。この仕事を始めて16年になりますが、それ以前は20歳からグラフィックデザイナーをしていました。記念すべきnoteの一発目は、私が転職した事情やそれまでの経験を、自己紹介も混じえてお話しさせていただこうと思います。

私が生まれたのは、よく言われるややこしい家、それも非常にややこしい家でした。
生まれ落ちた瞬間から、私は存在を否定される憂き目にあいました。
昔はよくあったようですけど、家の跡継ぎを期待される男子ではない姉に続き生まれた私を見て、祖母は母に向かって「また女生みやがって!!」って罵ったそうです。
当然私に言葉はわかりません(だとしても、その時の空気はうけとったはずです)。でも、父が度々悪さをするので、そのたびに祖母の記憶を反芻する母は、悪気なく私に聞かせ続けました。他にも祖母が勝手につけた私の名前は嫌だったとか。
今では笑って話せますけど、「あなた達さえいなければ自由になれるのに」と、3人の子供のために一人で奮闘する母、大好きだった母に申し訳ない思いで、私は小さい時から自分の存在そのものを消してしまおうと試みるぐらい罪悪感でいっぱいでした。
ですから、心の勉強を始めるまで、自己肯定感ゼロも無理からぬところです。

生まれた時はなかなかなお金持ちだったようですが、5年後には親の会社の倒産で、母たちと夜逃げ(父行方不明。これがそれ以降私のお金に対するネガティブな信念が形成されるのですが)。父は帰還するものの親としての自覚に乏しく博打に明け暮れ、それ以外にも色々あって、揉め事の絶えない家は緊張感いっぱいでしたから、誰もいない時が一番ほっとできる、そんな子供でした。

小学校は3つ行きました。良いこと悪いこと色々ありましたけど、当時は名前のなかった自律神経失調症の症状には度々悩まされていました。二つ目の小学校ではいじめにあいましたが、心の辛い記憶は、それより家でのものが多かったように思います。
中学校は繁華街のど真ん中にあったせいか、少人数の生徒はそれぞれ個性的で、大人びて自立していたので、私も自分なりの居場所を見つけて過ごすことができましたが、母と教師が決めた空気に合わない公立の進学校に進んでからは、そこに席を置くこことを隠れ蓑に、洋楽が趣味の学外の人達と、パンクロック全盛の70年代後半をエキサイティングに過ごしました。

その後、美術系短大を経て、広告制作の会社に入社しましたが、上司の理不尽ないじめで、もともと弱りやすい私の心は完全にやられてしまいました。
いじめは明らかに彼の心の問題でしたが、仕事ができるようになるまで逆らってはいけないという親の古い教えのもと三年半我慢し続け、心が気づく前に体を壊してようやく会社をやめましたが、その頃には頭痛、発熱、腹痛、胸腺炎、不眠で体を起こすことも難しくなっていました。
その上、この頃はまだ心の状態が体に影響するとお医者さんは思っていなかったので、それぞれの対処のための抗生剤などを一年以上飲み続けるなどしたせいか、本来の体の力はどんどん失われていきました。

それでも気を遣う家での生活が辛い私は、少し体調が戻るたび様々な事務所を出たり入ったりした後、フリーのデザイナーとして仕事を始めましたが、27歳の時、自宅で突然、心肺停止してしまいます。
高校の時に発症した喘息のアナフィラキシーショックでした。いつものように発作の予兆を感じて、すぐ、いつもと全く違う状態に(変だな?)と思った途端、驚く間も無く意識を失いました。
次に気付いた時、うっすらとした状態の中でクリアな意識だけの私は、(死んだのかな?)って思いました。そして、(まぁいいかって)思ったんです。
何しろ、好きな人もやりたいこともなく、日々なんとかやり過ごしていたような状態でしたから。
早期に発見された私は、救急車に運ばれ何かされている肉体をぼんやり見ながら、(父と母が悲しむな、申し訳ないなって)思いましたが、その瞬間、重い体にドスンと戻ったのです。今から思えばそれが人生の転換点でした。
まあいいかって思ったぐらいですから、蘇生されたからといって特に喜びもなく、命もらえたんだから大切にしようとも思いませんでした。
でも、病院から帰って、テレビでいつもは笑えないものまね番組を見て、少し笑って(これも悪くないか)と思ったのです。

女の子は嫁に行くのが当たり前だと思っていた母には、若い時からそれに関係ない事はことごとく反対されましたが、そのしばらくあと、ふと思った「ドラム習いたい」という言葉は反対されませんでした。
貯金はありましたから、すぐ音楽教室に入学しましたが、結局のところ一月分のレッスン料を払って、つまらなくて半月でやめました。
でも、その時、始めて私は自分がしたいことを母に主張し、実際に体験したのです。

その頃から私は意図せず心に従うようになっていました。
何か違うことをやってみたくなって、新聞広告で写真スタジオのバイトを見つけ入社しました。広告会社にいた頃スタジオの仕事も手伝っていましたから、商品管理ならできると思ったのです。
でも、なぜかカメラマンのアシスタントに充てられ、その後、訳もわからないままその人と交際することにもなりました。男性とお付き合いしたのは、これが初めてでした。その後、離れたり戻ったりしながら、関係は10年以上に及びましたが、そのことが私を大きくこの道に導くこととなったのです。

彼との交際は、楽しいこともありましたけど辛いことも多く、絶えない悩みをうちあけた仕事関係の女性が一冊の本を貸してくれたのです。その頃出版された、シャーリー・マクレーンのアウト・オン・ア・リムでした。
精神世界という言葉もこの時初めて知りましたが、その本は私の中に経験したことのない、でも何かすごく懐かしいような明るい光を灯してくれました。
比喩ではなく、実際に私の中が軽く明るくなったように感じたのです。

その感覚に突き動かされるように、その後、私は精神世界系の本を読み漁り、様々なワークショップに参加し、本当の自分を取り戻し始めました。
そして、その頃知り合ったカウンセラーに自分自身のためにと勧められた心理療法(神経言語プログラミング)の勉強会に参加してセラピストになりました。そして同時期、寝起きに突然(マッサージ習いたい)と思った日にかかってきた友人からの電話「アメリカからヒーリングの先生呼びたいんだけど、5人以上集めなきゃいけないの。入らない?」にのって、ヒーリングを習いヒーラーにもなり、以前の私と同じように苦労している人々が自由になるためのお手伝いが、少しできるようになりました。

「人は本来幸せに生きるために生まれてくる」。この言葉に疑いの気持ちはありません。それに幸せに生きるために悩みや苦しみが必要だなんて、これっぽっちも思いません。でも、これが私の道でした。
ややこしい家に育ったこと、精神的に繊細で心身共に苦労したこと、命が一旦リセットしたこと。様々な悩みや苦しみの全てが、今の仕事に、そして私が自分と向き合い、本当の自分を取り戻し、心身共に健康な人生を楽しめるように導いてくれたのです。
それにお陰様で30歳以降、喘息の発作は一度もなく、今はすっかり健康です。

こうして、今、何をしても、していなくても、存在として私は自己肯定感100、時々90になれました。

長くなりましたけど、ここまで読んでくださった方に感謝します。
これからは、私が幸せになるために学んできたこと、その過程で体験したこと、思うこと、セラピストとして使わせていただいている様々なテクニックなんかもアップしていきたいと思っています。どうぞ、よろしくお願いします!!

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