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専業主婦になりたかった田舎女子のターニングポイント|とべちゃんのレシピ

こんにちは。とべちゃんの頭の中を書き残すnoteです。

私は今の自分がどこから来たのか、何でできているのかを考えることが好きです。そこで”とべちゃんのレシピ”と題して、これまでの印象的な出来事を振り返ります。

今回は、タイトルの通り!専業主婦になることを夢見ていた田舎の女子高生だった私が、ベンチャー企業でガツガツ働く、自称”陽気なワーカホリック”になった経緯を書き残します。

よろしければ、最後までお付き合いお願いいたします。



1.専業主婦になるのが夢だった田舎の女子高生

私の地元は、人口5000人をきった高齢化と過疎化の進む小さな町。毎日3時間に1本のローカル線に乗って高校に通っていました。

私が通っていたのは”人間生活科”と言う珍しい名前の専門学科。いわゆる家政科で、被服、調理、保育、福祉を専門に学ぶところです。

小さな頃から料理やお裁縫をはじめとしたモノ作りが好きだったこと、中学時代のテスト勉強に疲れたこと、何より、その先の進学を考えていなかったことから、

「人生最後の学校生活だから好きなことに没頭したい」

と思ったのが進学の決め手でした。

週の3分の1を実習が占めるカリキュラム。着付け、テーブルマナー、保育園実習、介護ボランティア…普通科ではできない経験をたくさんさせてもらいました。

中学時代はどんなに頑張っても1位になれなかったテストの成績は、常に1位。大学進学を目的とする普通科に比べると、専門学科は入学時の学力要件が低く、中学までの私の成績で考えれば上位に行きやすかったと思います。

入学直後のウエルカムテストで、奇跡的に1位になったのをきっかけに、順位を落とすわけにいかなくなりました。おかげでその後の3年間、頑張ることができました。限られた範囲内ではありましたが、一応、成績優秀者だったので、学校側は専門性を活かした家政系四大への進学を期待していたようです。


2.自分で生きていく力が必要だ

2年生の夏から進路面談が始まりました。私は高校を卒業したら就職しようと思っていました。経済的な事情もあったし、田舎町では高卒で働く子が多かったので、それが当たり前だと思っていました。

「就職」と書いた私の進路希望調査票を見ながら、担任の先生はこれからどう生きていくつもりか尋ねました。

「工場で働いて、結婚したら子供を産んで専業主婦になりたいです!」

当時はかなり本気でそう思っていました。むしろ、それ以外の人生を描くだけの想像力が私にはありませんでした。そんな私にあきれた先生が投げかけた言葉がターニングポイントでした。

「旦那さんと離婚したらどうするの?旦那さんが死んだらどうやって生きていくの?」

その言葉にはっとしました。

「…そうか。自分で生きていく力が必要なんだ。」

と、一気に考えが変わりました。


3.第一志望「北大」、第二志望「就職」

そもそも進学を考えていなかった私は、世の中にどんな学校があるか知りませんでした。まずは道内の大学を片っ端から調べました。色々と調べていく中で、本当に行く価値のある学校に進みたいと思うようになりました。

高い授業料を払って行くのだから、世の中でその価値がきちんと認められる場所、卒業することで選択肢が広がる場所でなくては意味がないと思ったからです。

そんなときに見つけたのが、「人間を科学する」を掲げる北海道大学の教育学部。

幼少期から人の心の変化に強い興味があった私は、直感的に「行きたい」と思いました。北大は国立大学で権威があるし、私立に比べて学費も安い。文句なしの進学先です。

しかし同時に、大きな問題が発生します。そう、学力問題。専門学科に通う私はセンター試験の出題範囲を網羅する授業を受けていません。

それでも何とかならないものかと、入学案内を隅々まで読み込み、小さな備考欄に記載されていた「AO入試」を見つけました。

受験対象の欄には「専門過程を履修した者」、「センター試験免除」と書かれているではありませんか…!

3年間、勉強を頑張った甲斐があり、応募にあたっての成績要件を満たしていました。

「私のための募集!」

息が止まりそうなくらい興奮しました。


4.孤独な記念受験

”第一志望:北大 教育学部、第二志望:就職”

新たな進路希望調査票をみて、先生が2度目のため息をつきました。

「どうしてこんな無謀なことを。推薦なら確実に合格できるのに…」

先生を困らせるつもりはありませんでした。でも学費に見合うだけの価値があり、学ぶ内容への興味があるのは北大 教育学部だけ。

私の無謀な希望は職員室の懸案となり、学校中に広がりました。それでも頑なにこだわりを貫く私に、「ダメ元だからね。記念受験として。」と言いながら、先生は渋々と渾身の推薦書を書いてくれました。

3年生の夏、私の記念受験がスタートしました。選考フローは一次が書類、二次が小論文+面接。書類選考はESのようなもので、基本のプロフィールに加え、志望動機や自身に関する項目、教育における関心事について述べるレポートで構成されていました。私は、当時、話題になっていたゆとり教育についてレポートを書きました。

書類選考は無事に通過。難関は二次試験。小論文も面接も、最初はボロボロでした。

面接練習では担当の先生に「あなたが北大に行くべき理由がわかりません」と突き返されて悔し泣き。

一人で対策した小論文。小論文とは何なのかわからない、だから書けない。そして、そのモヤモヤを分かり合える人がいない苛立ちで悔し泣き、の繰り返しでした。

周囲はあくまで”記念受験”と言い続けました。でも、そうした空気を感じるほど、反発するように「絶対合格してみせる」と、日に日に気持ちが強くなりました。この気持ちが原動力になり、二次試験を乗り越えることができました。


5.世界がひっくり返った

試験の結果は年末。期末テストの最終日のことでした。気が気がでない私はテスト勉強にも身が入らず、テストを見直すのをあきらめるほどでした。

ついに結果発表の12時をまわり、担任の先生とパソコン室へダッシュ。結果画面を待つ間、「記念受験だから、無くても…ね。」と先生は最後まで期待値コントロールをしてくれました。

そして結果画面が表示された瞬間、私の受験番号がそこに…!

思わず飛び上がって先生と抱き合っていました。教室に戻る廊下を歩きながら、自分の人生がグググっと方向を変え、生きる世界が広がっていくのを感じました。

翌日には、私の合格が学校中に知れ渡っていました。それまで関わりの無かった先生が、突然「よく頑張ったね」と握手してくれました。卒業後も進路指導の講義でOGとして登壇する機会をいただき、まるで英雄でした。

こうして専業主婦になるのが夢だった田舎の女子高生だった私は、大学進学。北海道を飛び出して就職。さらに日本を飛び出して韓国へ。帰国後はベンチャー企業に転職して今に至ります。

私は今、中高生の頃には1ミリも想像できなかった世界を生きています。

人生、何があるかわからない。

起きてくることが面白い。

意外性って面白いと思います。

・・・・・

はい、本日もありがとうございました。

다음 너트에서 만나자!안녕~

とべちゃん: )