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ショーシャンクの空に見るサルトルの自由・実存主義①ブルックについて

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アマゾンプライムに入っていれば見れます。
見たほうがわかりやすいですが、見なくてもわかるように書いています。
この映画を通してサルトルの自由・実存主義を考えます。

ショーシャンクの空とは「無実の罪でショーシャンク刑務所に投獄された銀行マンが知識、知性、そして自由への希求を持ち続け30年かけて脱獄する」という話です。
タイトルの通り、この映画とサルトルの関係について述べたいところですが、まずはサルトルの考えを並べます。

・サルトルが言うには、自由とは「注意と立ち直る力を要する継続的なプロジェクトであり、それがなければ他人や制度によって規定されてしまうもの」。
・実存主義とは、本質主義とは異なる立場。
・本質主義とは世の全てが神によって予定されているとします。過去、未来含めて決まっています。
・実存主義は自分の手で選びとって行く考えといえます。耳障りが良く、その通りと頷くところですが、ふつう私たちはこれを行いません。

次に”自由”を知るために、”不自由”な状態をこの映画のいくつかのエピソードから見ます。

登場人物紹介:
アンディ...主人公、無実の罪で投獄される。自由を知っている。
レッド...アンディの友達。刑務所内外の密輸入をする調達屋。
ブルック...図書係を務める老人。

エピソード1 ブルックの死

ブルックは50年刑務所にいた。仮釈放が通り、外に出られることになったが彼は、塀の外が怖かった。仲間の囚人に仮釈放を祝福されると、彼に襲い掛かり涙を流しながら不安を語った。
仮釈放されると、住居と仕事が与えられていた。
だが、友人も家族もいない土地で元犯罪者として疎まれながら働いた彼は、終いに不安で自殺した。

レッドは彼の死について刑務所の存在と共にこう話します。
「はじめ、刑務所が囚人を閉じ込めるが、次第に囚人が刑務所を頼るようになる。」

このエピソードにおいて”不自由”の状況にあるのはブルックです。
刑務所に収監されている人間が不自由なのは、一般に言えることですが、仮釈放され刑務所外にいるのにも関わらず彼は”不自由“にあり、結果として死にます。
また、サルトルの言う”自由”ではない状態の”不自由”とは少し性質が異なります。
確認すると、サルトルの言う自由とは

「注意と立ち直る力を要する継続的なプロジェクトであり、それがなければ他人や制度によって規定されてしまうもの」でした。

定義を逆に考えれば、ブルックは「注意と立ち直る力を持たず、他人や制度によって規定された、不自由な状態」にあったと言えます。
それぞれの要素を分解し、解釈します。

1,注意...依存しないようにすること。依存に気づくこと。
2,立ち直る力...希望を持つこと。
3,他人や制度によって規定...刑務所によって。

ここでそれぞれの要素を細かく見ていくと
1,注意とは、
刑務所に依存する心理状態にならないことです。
想像し辛いですが、刑務所生活というものは慣れてしまうものです。刑務所内には完全に娯楽が無いわけでは無く、
・調達屋によって嗜好品(タバコ、映画のポスター、日用品)を買う。
・刑務所内で映画を見る。
・休み時間に仲間と一緒に運動をする。
・給食(?)を食べながら仲間と談笑する。
といった楽しみは存在します。
ただ、海に行きたい、だとか美女に会いたい、といった未来への希望を語ることは出来ません。刑務所で話が出来るのは、刑務所に有るものだけです。しかし、自由であるためには希望を持ってはいけないと感じさせる状況に気づくこと、希望を持てないことを思考に根づかせない注意が必要です。
2,立ち直る力とは、
希望を持つことそのものです。しかし、外の世界に新たな楽しみを求め、見出すといった希望は、変わりきった世界に疲れ、友人がいない世界に楽しみが無いと感じるブルックには持つことができませんでした。
3,他人や制度によって規定とは、
第一にサルトルの定義の裏を考えれば、注意し、立ち直る力があれば規定されない(自由である)ということを確認する必要が有ります。
しかしそれは、「注意し、立ち直る力があれば収監されない」という意味ではなく、「注意し、立ち直る力があれば規定されず、自由であることができる」という意味に留まります。つまり「自由であれば収監されない」といった意味では無く、「収監されていても自由」であることが出来るし、「自由でありながら収監されうる」ということです。
そしてブルックはその外に居ながら刑務所に規定されていました。

このようにサルトルの定義、定義の裏に照らし合わせれば、ブルックがどうあれば良かったのか、どうあれば自由にあり、生きることができたのかが浮かび上がってきます。

一方で50年間服役し、ひとりで仮保釈されたブルックが自殺したことに対し、サルトルの定義を持ち出し自由を説くことに、墓暴きのような冒涜を感じる人もいるかもしれません。彼が死んだことは運命で、よりよく生きる方法を考えることや、彼が刑務所内外で不自由にあり、自由でなかったこと考えることが、ひとつの生を貶めていると感じる人も居るでしょう。それが本質主義です。
たとえ刑務所に50年間いたとしても、”今”外にいる状況でどのようにありたいのか、どのようにあるべきかを考えこれから自らの本質を創っていくことが実存主義的であり、自由であることです。

今回はブルックの人生における自由・不自由の状況についてサルトルの定義と照らし合わせ考えました。
次は実生活において私たちが依存するもの、私たちを規定するものについて考えます。

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