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40夜 その前にやることがあるんじゃないのかなあ

 先日,大阪府の知事が大阪公立大学を数年後には9月入学にして,公用語を英語とするような発言をしておられた.グローバル化に対して我が国は乗り遅れてはならない,という危機感の表れなのであろう.9月入学については以前東京大学でも一部実施されたことがあったが結局うまくいかなかったような記憶がある(間違ってたらごめんなさい).この9月入学の発言に対しては多くの方が,大学以前の教育制度が4月入学を基準にしていたり,新入社員の入社時期が未だ4月であることを鑑みれば,メリットがあるとは言い難い,という趣旨の発言をしておられる.そもそもなぜ4月入学なのか?という問いに対しては,「国の会計年度(4月-3月)」に合わせているという見方が一般的なようで,たしかに年度末と年度初めに学校の予算を編成したり執行スケジュールを立てたりするためには,この会計年度に合わせる方が合理的だろう.
 では,諸外国はどうなっているかといえば,これも多くのサイトでの指摘通り,3月や4月に入学時期を設定している国は韓国やインドなどごくわずかで,1月末入学を実施しているシンガポール・オーストラリア・ニュージーランドを加えても年の前半を入学時期に設定している国は極めて少ない.ほとんどの国が9月入学であるのが実情だ.
 基本的な問題として,「9月入学にすればグローバル化している.」といえるのだろうか.そもそも,9月にするというのは,外国人が日本の学校に入りやすくなるというメリットはあるものの,果たして時期が合うから日本の学校に入ろう!となるのだろうか.また,日本人についても,時期が合うから外国の学校に行こう!となるのだろうか.多分,そんなことはないだろう.学ぶかどうかは時期の問題ではなく,学びに値するほどの価値を学校が提供できるかどうかにかかっているだろうと,筆者は考える.「こんな面白いことをこの大学ではやっている」とか「この先生がいるからこの大学で学びたい」という明らかな価値を求めて,学生は集まるはずだろう.
 したがって,「英語を学内の公用語にする」という話にしても,学問として使う英語は論文に対して,「書く英語」や「読む英語」は早い段階から重要だろうが,「話す英語」や「聞く英語」は段階を踏むべきだろう.やはり「英語」よりも大切なのは「専門科目の内容」であり,だからこそ明治期の方々は苦労して専門用語を日本語化されたのだ.この苦労のうえに,私たちの教育は,すべて日本語での教育が可能となっているのである.
 日本に学びにやってくる外国人も,本当にそこで学びたいのであれば「日本語」を学べばよいわけで,無理に「学内の公用語を英語」にせずとも,必要ならば,我々日本人も「話す英語」を学べばよいと考える.
 誤解を恐れずにいうならば,問題は現状の英語教育の在り方であり,小学校から中学校・高等学校に進むにつれて単純に面白くない英語になってしまう点にあると筆者はみる.そう遠くない将来,テクノロジが言語の壁をなくしてしまうだろうことは,だれの目から見ても明らかである.かのイーロンマスク率いる「ニューロリンク」が脳内デバイスの試験を始めた(これに先立って欧米の数社が既に同様の試験を始めている)ことで,将来的に「知識」は脳内に貯蔵するものではなく「検索」するものと位置づけられることになり,検索によって得られた知識をどう解釈し利用するかを思考することが人間の役割となる.もちろん,その部分についもAIが肩代わりをする可能性が十分にあり,この部分については,これまで「ヒト対ヒト」であったものから「ヒト対ヒトまたはAI」へと拡張される.こういった状況の変化は加速度的に早まっているとみたほうがいい.
 話を元に戻せば,今私たちが考えなければならないのは「入学時期」よりも「英語」よりも,様々な事情で大学進学を諦めたり,学校に行けなくなったりする学生や児童生徒を,いかにして勉強する世界に連れ戻すかということなのだ.大学に係る費用が年を追うごとに膨らんでいる現状では,「3人子供を産んだら一定の条件下で無償化」などという陳腐なことをいっていないで「保育園・幼稚園から大学まで」一貫完全無償にすることや,増加傾向に歯止めをかけられない「不登校」に対して「不登校児童生徒がそれでも学びを可能にできる空間の確立」を目指すことだろう.これら2つの課題を解決することは,結果的に「国力」を回復することにつながる.
 大切なのは,未来に託すために今何ができるかを,国や地方を司る人々が
視点をかえて実行に移すことだろう.「裏金」がどうだこうだと議論している暇があったら,将来を憂う,もう少し生産的な場になることを「国会」に望みたい.

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