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愛とは錯覚である。それが分かったときも変わらず続ける事それが愛。

こんにちは。
生命という器の中にある

その命を生き切る、大切にするために
生きるとは、命とは、死とはを考え、
その中で必要な『愛する』について記しております。


 そもそも、愛という言葉があり
時にお互いのコミュニケーションの中で、
その言葉が使われ
行動するときの、動詞のように
あきらかにそこにあるものとして
皆がその言葉を使い表現している。
でも
『これが愛!』と目に見える明らかなものとして
誰も、私は伝えることができないとも考えます。


  愛とは目に見えず
確かにそこにあるようでそこにない。
そして私はいつも、そこに愛があってほしいと
自らの行動、言葉、想い、そこに愛があってほしいと
願っているし信じたい!、いやあるよ!
と心の中で、あるのかないのか、揺らいでいるところがあると
想います。

 そもそも、私自身は、生きている過程の中で
自らのころころと、あっという間に変化する感情、心を
みつめ、
自分の、愛の浅はかさ、つまり愛がなかったのではと
愕然とする経験が多い。

それは依存だった。。
それは不安と恐怖から逃げるための、行動、あふれる想いで
自分で自分をごまかしてたのでは。。と
疑問がよぎるときがあります。
相手側というよりは自分自身に対してです。


 そしてその心の変化は
周囲にも、何故か、瞬時で伝わる。
そして関係性に変化がくる。
季節が変わるように、
関係性も変わっていく。
始めはあんなに好きだったのにー!
今ではー!?みたいな身近なこと含め。
地球上は、世の中では、酷で、非情なことがある。
病も、死も、そして、戦争、災害など
大きな壮大なこと含め。

今、目の前で起こっていることを考えると
それが人類が起こしている、人類の想い、行動が
密接に関連していることを想うと
愛とは錯覚なのだと、いうことに気づく。


それでも、愛が錯覚だと気づいたうえで、
私は、私たちは、
愛そうとしていくこと、
あきらめないこと
続ける事
見つめて、聴いて、感じて、
想い、祈り
行動し続ける事その過程が愛するということでしょうか。

たぶん愛が錯覚なのではということに
気づいた時点からが勝負なのだと。
そこからが
ほんとの愛するという正念場が
展開されるのかもしれない
そんなことを想いめぐらしました。


今日は、愛は錯覚なのではという
愕然たる現実を時折
想うことを記しました。
それにもかかわらず、それを認めたうえで
行動する事
そこから本当の愛が始まるきっと。。

と、堂々巡って
またあきらめず信じたい私なのでした。

今日も愛について考えました。
そして今日も、~にもかかわらず~
想い、行動できるよう愛そうとすることを
只今を生きていきたいと思います
今日のあなたの命にありがとう
そして私もありがとう。
よい午後をお過ごしくださいませ






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