見出し画像

平野塚穴山古墳・平野車塚古墳・鳥谷口古墳・松岳山古墳に行ってきました(前編)

始めに

 2月某日、日課のインターネットサーフィンをしていると、奈良県香芝市の二上山博物館において「飛鳥の王陵と平野塚穴山古墳-平野塚穴山古墳の被葬者を推理する-」と題する企画展が開催されていることを知りました。平野塚穴山古墳と言えば後述しますがとある皇族の陵墓と目される超重要な終末期古墳であり、長年行なっていた整備事業が最近完了したということを小耳に挟んでいたので良い機会だと思って早速行ってきました。

 当日はまず付近にある尼寺廃寺跡にある駐車場に車を駐め、そこから徒歩で平野車塚古墳平野塚穴山古墳と巡り、再び車で二上山博物館へ。企画展を鑑賞し昼食を取ってから二上山の麓にある鳥谷口古墳へ行き、そして帰路にある大阪府柏原市の松岳山古墳に寄り道しそのまま帰宅しました。

平野車塚古墳(平野1号墳)

 尼寺廃寺跡の駐車場から南に住宅街を15分程度歩くと平野車塚古墳が見えてきます。

説明板はかなり劣化していて読めない
扉は施錠されており入ることはできない

 平野車塚古墳は平野古墳群を構成する古墳の1つで別名「平野1号墳」とも呼ばれています。平野古墳群は消滅した古墳3基を含め6基の古墳で構成されていました。
 平野車塚古墳は直径24m~26mの円墳であったと考えられ、南西方向に開口する全長9.2m(羨道長5.7m、玄室長3.5m)の両袖式横穴式石室を主体部に持ちます。現在古墳は柵に囲まれており石室にも立ち入ることができませんが、玄室の床面プランが正方形に近いことや、石積みの形態から平野古墳群の中では最も古い7世紀前半に作られた古墳であると考えられています。

柵越しに撮影した開口部 是非とも入室してみたかった

平野2号墳

 平野車塚古墳の西側に接して平野2号墳があります。

画面中央の藪が2号墳なのかなと思ったが画面左にもっと行ったところにあるっぽい

 平野2号墳は平成12年に発掘調査が行なわれており、それによると直径約26m、高さ約6.5mの円墳であったと考えられています。主体部は南西に開口する全長10.6m(羨道長6.8m、玄室長3.8m)の両袖式横穴式石室です。この古墳の特異な点はその埋葬方法で、まず玄室中央に土と凝灰岩片によって棺台の基礎を構築し、棺台基礎周囲の床面全体に二上山産の凝灰岩切石を敷き詰めて装飾します。そして棺台基礎の上にせん(レンガのこと)を敷きさらに土製の受け台を設置して棺台を構築し、その上に木棺を安置するという凝ったものです。
 平野2号墳は石室の形態や出土した須恵器などの遺物から7世紀中頃の築造と考えられています。従来の花崗岩製横穴式石室に二上山産凝灰岩による敷石と棺台を備えた埋葬施設は、後述する平野塚穴山古墳の全面二上山産凝灰岩製の横口式石槨よこぐちしきせっかくへの移行過程を研究する上で非常に貴重な古墳であると言えます。
 なお写真の通り古墳への道は柵で閉ざされており入ることはできません。また、他のブログを参照すると石室も埋め戻されているとのことです。
1号墳も含めて貴重な古墳は是非とも墳丘や石室の中まで見学できるようにして頂ければ人々の文化財に対する関心や重要性の再認識にも繋がるのではないかと思うのですが……説明板も荒れ果ていますし。香芝市には平野塚穴山古墳の整備の次は是非ともこちらにも整備のスポットを当てて欲しいと思います。

平野塚穴山古墳

 平野車塚古墳から西にしばらく歩くと正楽寺と言うお寺があり、その側に平野塚穴山古墳があります。

しっかり整備されている
説明板
説明板その2

 平野塚穴山古墳は7世紀末に築造された古墳で、丘陵の斜面に版築はんちく(土を数cmずつ突き固めて盛り土を構築していく日本古来の建築技法)で造成された一辺25m~30m程度のコの字状の段の上に、同じく版築で築かれた17.4mの方墳が乗った形状をしており、下段を含めた高さは5.4mになります。
5.4mの版築というものは当時の王墓級のものであり、版築の途中に凝灰岩の砕片を混入させながら構築するという建築技法も王族墓と目される高松塚古墳と同様のものです。平野塚穴山古墳のある場所は江戸時代の古地図「平野村絵図」に「御陵」と記載されており、当時から高貴な身分の人の墓だと認識されていたようです。

 また発掘調査の結果、少なくとも上段斜面には二上山産の凝灰岩製貼り石や敷石が巡らされていた可能性があるということです。同時期の飛鳥に二上山産の凝灰岩製貼り石を施す古墳としては真の斉明天皇陵の可能性が極めて高い牽午子塚古墳けんごしづかこふん、天武・持統天皇陵に治定されている野口王墓古墳の2つが挙げられます。

 平野塚穴山古墳の主体部は二上山産凝灰岩の切石を組み合わせた横口式石槨です。平野塚穴山古墳のものは横口式石槨としては古い形態で、玄室に短い羨道が付いた横穴式石室を模したような形状になっており全長約4.5mで玄室長約3.5m幅約1.5m高さ約1.7mを測ります。羨道の入り口と玄室の入り口の2箇所に閉塞用の石が填め込まれていたと考えられ、同様の構造は上述した野口王墓古墳にも見られるものとのことです。

 また平野塚穴山古墳の石槨の規格は朝鮮半島百済の王墓とされる陵山里東下塚古墳のものとほぼ同一であるとされており、石槨の構築に当たって半島の渡来人系技術者が関係している可能性もあります。その一方で石槨石材を設置する際に石材に空けられた梃子穴が検出されており、同様の梃子穴が高松塚古墳キトラ古墳マルコ山古墳からも検出されていることから、平野車塚古墳の石槨を建築した石工集団がそれらの古墳の石槨を建築したと考えられています。

上段墳丘と横口式石槨の開口部
開口部を補強しているのはコンクリートではなく石槨石材と同じ凝灰岩とのこと
石槨遠景
今は風化してボロボロだが、築造当時は入り口の補強石材のように白く光り輝いていたのだろう
非常に精緻な石槨内部 当時の石材加工技術の高さがうかがえる

 また石槨内からは夾紵棺きょうちょかんの破片が発見されています。夾紵棺とは何枚もの麻布を漆で塗り固めて作られた棺のことで、主に飛鳥や河内地方の王墓や王族墓などに採用される格式の高い棺とされています。

平野塚穴山古墳の被葬者

 平野塚穴山古墳が存在する地域は古来から片岡と呼ばれており、代々敏達天皇の家系の財政基盤があった土地と考えられています。そして平安時代の書物「延喜式」によるとこの地域には孝霊天皇・顕宗天皇・武烈天皇の陵墓と共に茅渟皇子ちぬのおおきみの陵墓があると記載されています。茅渟皇子は敏達天皇の孫であり、舒明天皇の異母兄弟斉明天皇の父天智天皇と天武天皇の祖父に当たる人物です。
そしてずばり平野塚穴山古墳の被葬者はこの茅渟皇子であると考えられているのです。平野塚穴山古墳が前述した大規模な版築・特異な造成技法・凝灰岩貼り石・横口式石槨の導入・夾紵棺といった終末期の王墓級の古墳に当てはまる要素を持つ古墳であることや、延喜式の記述、茅渟皇子の没年が古墳の築造時期に当てはまることなどからこの説はかなり有力視されています。

 現在日本では天皇や王族の墓は陵墓として宮内庁に管理されているため見学することはできませんが、牽午子塚古墳や平野塚穴山古墳のような宮内庁によって治定されていないものの陵墓の可能性が極めて高い古墳は当時の陵墓の構造を知る上で非常に重要なものであると言えます。もし見学される際は是非古代のロマンに思いを馳せてみて下さい。


長くなったので鳥谷口古墳と松岳山古墳は後編に回します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?