彼女のその2。

『ああ、もう!なんでこんな時間まで!』

取引先との食事や酒の席を嫌っているわけではない。
ただ、帰れないのが嫌なのだ。
暗黙の了解、忖度、”当たり前”という圧。

『「好きにやってね。」なんて、先に帰ったら後からネチネチいう癖に!』

フリーランスの彼女にとって、一本一本の仕事はとても大事だ。
しかし、割りに合わん!と思うことも稀にある。基本的には感謝をもって相手に臨むし、give&takeという発想も好まない。gifting&recieving。送ることと受け取ること、互いの貢献になることをしたい、というのが彼女のベース。

その、他人より幾らか深く大きい感謝の泉が干上がってしまう程に、今日の相手は彼女の酒を不味くさせた。

なんで何の面白味もない他人のセックス事情を延々と聞かねばならんのだ。あんな人、まだいるんだわ。
そう苛立つと同時に

『いや、会話を切り替える私のスキルが足りてないんだわ…。』

と自分を顧みる。そして少しシュンとしたりもする。

そんな相手の乗り込んだタクシーが見えなくなると共に携帯電話を取り出す。

 ごめん、まだ起きてる?今、やっと終わった。


45分前に中座して送ったメッセージはシンプルだ。

 今夜、どうしてる?

きっかけは、どちらからでも、いつもそんな感じ。そして、そんなメッセージを送る側は必ず酒に酔っている。返信は速かった。

 家でゆっくりしてるー

 

 行ってもいい?30分ぐらいで出られると思う。


 待ってる



 ごめん、遅くなった。起きてる?

と打ちながら彼女はタクシーに飛び乗る。いつもの帰り道とは反対方向を告げてシートに身体を預けると、たっぷりの疲労感となんとも言えない甘美な気持ちが湧き上がり、自分が認識しているより酒がまわっていることに気付く。

『会いにいく途中で、私、いつも酔い出すんじゃないの?』

携帯電話が震える。

 起きてるよ

ありがとう、と返信していつもの場所でタクシーを降りる。コンビニの眩しい明かりに顔をしかめつつ、小さな酒と大きなミネラルウォーター、そして彼のタバコを抱えて、ふわふわと歩く。

『早く。早く、触れたい。』

両脚の回転数が上がる。
ほんのちょっとの道程の筈なのに、少しでも縮めたい。

『1秒でも長く、あの肌に触れていたい。』

インターフォンを鳴らし、玄関の扉が開くのを待つ。小さなキッチンを通り、いつものドアを潜り抜ける。
相変わらずの薄暗い部屋。自分も明るい照明は苦手だから、丁度良い。
振り返って、そっと扉を閉める。

カチャリという音と共に、

あの、表現し得ない、凝縮された空間が息を吹き返す。

『疲れてたんだわ、私。』

と気付くと同時に、今夜はゆっくりこの子に抱かれていよう、と決め込んだ。

『とにかく、この肌が欲しい。』

とりあえずはいつも通りに着替えを借りよう。
話はそれからだ。


部屋に残る紫煙越しに二人の速度が同じ思いだったことを知るのは、
これよりまだまだ先のお話。


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