つまらないのは誰のせい?

絵画を鑑賞できるようになるために時代背景や作者の生い立ちを知る必要があるのはそもそも絵画とは作者が誰かに伝えたい事であるからに他ならない。

これは絵画だけに至った話ではなく音楽や小説、アニメなど全ての作品は伝えたい思いが土台となって細かな部分にこだわることが出来る。

作品の思いを受け取るには作者自身の器量と受け取る側の教養というふたつのアプローチがある。

この内、受け取る側にできることは作品に対する縦軸(時間軸)と横軸(空間軸)に目を向けそんなナラティブがある中で、

何を伝えたかったのだろうか?
自分ならその状況で何をするか?

と想像することだけだ。その作業を怠る者に作品の価値などわかるはずもない。

この世にはこんなにも音楽作品が溢れているのに、今聞かれているほとんどの音楽は今を生きる作者の作品である理由がここにある。

受け取る側が作者とほとんど同じ時代背景を持ち、生い立ちもある程度共感できるからこそ、彼らが生み出す作品は価値があると思えるのである。
飢餓時代を生きた人の悩みを綴った歌に共感できる人はこの時代には少ないだろう。

ならば時代が違い、ナラティブを共有できない作品には触れる必要が無いのか?と問われればいささか疑問が残る。

その疑問とはふたつある。

1つは、この世界は地続きであるから。今君が愛している音楽の始まりはその作者がゼロから作ったものでは無い。

もう1つは、人の根源的な欲求や感情はいつの時代も変わらず共有できるものだから。大切な人を亡くした悲しみはどの時代の人も感じていたはずだ。

そうやって抽象化して自分事だって思える対象を増やすことで、自分の一分一秒ですら大切な、価値あるものだと感じることが出来るだろう。

それは生きてる意味を見つけることに他ならない。

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