受け取っていたことに気づくと世界の見方が変わる

重い荷物を背負って街を歩く時、一気に社会に見放されたような気がしてくる。

普段は全く気にならないバスの2つの段差、2ミリ程度の段差、ホームと電車の隙間に至るまで私には親切にしてくれない。

こんな時に手を差し伸べてくれる人が居たのなら問答無用でその人を好きになるだろう。

なぜなら、バスの乗降や切符の購入にかかる時間、電車内の座席の確保に至るまで常に誰かに迷惑をかけているという気持ちに苛まれるからだ。

普段の私はそうい人がいても全くもって迷惑だなんて思わない。にもかかわらず、自分の番になると常に心の中でゴメンなさいを繰り返しているような気がする。

身体に不自由を抱えている方々はこれを日常的に経験していると思うと、いかに自分が恵まれていることに無自覚であるかに気づかされる。

当たり前にスムーズに思った通りに動かせるこの身体が、実は恵まれて与えられたもので、1ミリたりとも自分の実力では無いことに気がつくと世界の見方が変わってくる。

レジは早く済ませて当たり前とか、給料が低いのは頑張らなかったせいだとか、この社会には能力主義の考え方が溢れている。その人がなんでそうなっているのかに考えが巡らないため自分のものさしで人を勝手に測ってしまう。そのものさしが歪んでいることには気付かないふりをして。

人は誰しも弱い。

誰にも支えられず今日まで生きてきた人などいない。

その贈与の存在に気づかず、我がもの顔で、「これはできて当たり前だろ。」などとのたまう大人を私は信じられない。

かくいう私もその中の一人なのだが。こういう気づきを常に頭の片隅に置いて日常生活に溶け込むのは中々難しいものがある。

かつての習慣を手放し新しい習慣を形成するのはかなりの時間と労力が必要だろう。
それでも諦める訳には行かないのだ。



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