夏炉冬扇 #5
どうして、花束なのだろう。
ギコギコと自転車を漕ぎながら市街地を走る。狭く民家が並んでいる裏路地を抜けて、道の両脇に商店街が向き合う通りへと体を滑らせた。ここの商店街は昔から経営しているお店が多くて、大手小売店のような派手派手しさはない代わりに、隠れた名店が複数眠っている場所だ。味の染み込んだ肉ジャガが売りの惣菜屋や、掘り出し物の古書を扱う本屋は私のお気に入り。そんな数ある名店のひとつに『フレア』という花屋がある。早く花澤文藝図書館に行きたい衝動をこらえて、私は『フレア』の軒下に自転車を駐めた。
「こんにちは、おばさん、いる?」
店内に白い照明が反射して、一輪挿し用の花やフラワーギフト、花器などが床や商品棚に並び、コンパクトな空間に彩りを添えている。ややあって、電灯が光る店の奥からわずかな返事が聞こえたかと思うと、少し足を引き摺った五十歳ほどのおばさんが出迎えた。
「あら、いらっしゃい。お誕生日以来ね」
八月生まれの私は、同じ日に生まれた兄の誕生日を祝うために、ここでギフトセットを購入した。兄だけではなく、友人や職場の同僚に何かのお祝い事があれば、必ずここの城田おばさんにお花をお願いしている。
二、三言だけ挨拶を交わすと、「お花を買いにきました」と嘘をついて、他愛ない世間話をして時間を稼いだ。そして頃合いを見計らい、私は声のトーンを落として尋ねた。
「あの、そういえばなんですけど。私の兄が、ここに来ませんでしたか?」
すると、おばさんは肉厚な顎をちょっと傾けて答えた。
「お兄さんねえ…。ここ数日は来ていないけれど」
予想が外れた。兄も『フレア』を利用することがあるので、てっきりここで花束を買ったものと思っていたのだが。私はぺこりとお辞儀をする。
「そうですか! はは、ごめんなさい、変なことを聞いちゃって」
事の経緯をはぐらかすように綺麗な店内を廻る。本当はいま花を欲しくはないのだけど、一度「買います」と告げた手前、また店で何も買わずに立ち去れるほど私は傲慢に出来ていないため、直感的に惹かれた桃色のコスモスを手に取った。
「コスモス、ください。秋なんで」
私の表情が強張っていたのか、おばさんは可笑しそうに左手を口元へ当てた。
「まあ、気を遣わなくていいのよ。コスモスは建前で、ほんとうはお兄さんのことを聞きたかっただけなんでしょう?」
……完璧にバレてる。私は、ポーカーフェイスで嘘をつくのが昔から苦手。嘘というより、真意を隠しながら目的を達成する芸当ができない。今回のように、心のモヤモヤを解消したいのに世間体なんかが邪魔をするときは、わざと遠回しな質問や小細工でなんとか片付けたがる。でも結局はバレてしまい、始めから素直にやったほうが気持ちよかったなと後悔すること頻りなのである。
「へへ…。ごめんなさい、その通りで…」
まさにチョイワルが露見したヘナチョコ犯人そのものだ。おばさんは呆れたように太い腰に両手を回して言った。
「人間、シンプルなのが一番よ。お兄さんのことを聞きたいのなら、それだけ聞いて後は綺麗さっぱり帰ればいいの。変にあたしに遠慮するから、いま欲しくないコスモスを買っちゃうんでしょう?」
反論の余地もない。小学校の先生に諭されている気分だ。兄のことを聞けば、質問の意図を聞き返されるのではと怖くなって、面倒な会話を避けるために不自然な言動をしてしまう。こんな何でもないような行為にすら自分を隠して、絶えず他者に気を遣って本音を誤魔化そうと必死になるのだ。この癖のために、どれだけ無駄に私の時間と気力を費やしてきたものか。文庫本の百冊は読めてしまうのではなかろうか。
「ごめんなさい。珍しく兄が花束を持って出掛けたものだから、ここで買ったのかと思って」
なるほど、とおばさんが微笑む。
「お兄さんの意図はわからないけれど、直接聞いたほうが早い気がするわね。どこに行ったかは知ってるの?」
私が頷くと、おばさんが安心したように頬を緩めた。
「それなら良かった。ああ、あとね」
ひと呼吸おいて、おばさんが細い声で言う。ふわりと風が舞い込んで、店内の花々から漂う甘い香りが鼻孔をくすぐる。
「そんな風に遠慮しちゃうあなたが、私は好きよ。嘘でしたって簡単に認めちゃうところもね。昔の私を見ているみたいで。それに、あなたはセンスがあるわ。だって」
桃色のコスモスの花言葉は「乙女の純潔」。
「乙女の…。ふふ、私が『乙女』だなんて、ニヤけちゃっていいですか」
私は嘘をついたワルイ子なのには違いないのだが、意外にも性格を褒められたのと、こそばゆい花言葉とに頬を火照らせている私に、おばさんは噴き出した。
「そーそー、そういうとこ。充分あなたはピュアな子なんだから、それを忘れないでね」
私は元気よく頷くと、「やっぱり買います」と小銭を出して買った。店を出ようとするとき、思い出したようにおばさんは言った。
「お兄さんだけど。ここには来てないけど、一週間前くらいだったかしら、歌を歌いながら店の前を通り抜けていったことはあったわ」
「歌?」
確かに、兄は大の歌好きだ。歌うだけでなく、自分で曲を創ったりもしている。私はよく知らないのだけど、ボーカロイドというもので楽曲ができるらしく、深夜遅くまで作業している姿を何回も目撃している。
「あの、なんて歌ってたか分かりますか?」
「そうね…。私もお花の水揚げをしている最中だったから、はっきり聞き取れていないのだけど」
そう断ってから、おばさんは言った。
「アマツカゼがなんとか…」
「あ、天つ風!」
私の絶叫に、おばさんが三歩ほど後ろへ飛びあがる。私の瞳は、どうしようもなく揺れていた。どうして、どうして、と疑問符が怒涛のように脳内を駆け巡る。
「お花、ありがとうございます!」
私はおばさんに深々とお辞儀をして店を出る。自転車に跨って網カゴにコスモスを乗せると、灰色の秋空の下へ躍り出た。身体に当たる風が胸を掬うように冷たい。さっきまで雲間から笑顔を覗かせていた太陽は隠れて、私をふくめた街中の人々の影は薄く道路に溶けている。早く、兄に会って話がしたい。早く、一刻も早く。
なぜ兄は、「あの歌」を知っていたのだろうか。
二十年以上も同じ屋根の下で暮らしてきて、私の知らない兄の姿がある。たとえ二卵性双生児だとしても、まだ掴み切れない彼の世界がある。だから、とにもかくにも、兄に会うのだ。
花澤文藝図書館へ。
あの日、あの歌を知った場所へ。
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