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破壊、再生、言葉。

言葉のチカラってなんだろう。作品を書くってなんだろう。そんな哲学的な、掴みどころのなさそうな問題を、それほど創作歴が長くない私が考えたところで仕方のないことかもしれません。しかし、高校の文芸部で「ものを書く」ことの楽しさを知ってから今日まで、創作に対する想いや見方は、ゆっくりと変わってきたのは確かな事実であって、note開始から二年が経とうとしている今、何らかの文章を残しておくことは後々にとって良いことかもしれないと思いました。

言うまでもないことですが、言葉はコミュニケーションツールのひとつです。学校や職場でのやりとり、文章作成、家族や友人・恋人との会話など、あらゆる場面で私たちは無意識に言葉を使っています。手話や点字、ジェスチャーなども言葉に含まれると思います。

しかし、ふだん生活していく中で、言葉のチカラを意識する機会は少ないように思えます。私も、本格的に創作活動をする前は、言葉を使うことを当たり前のように受け止めていました。それゆえ、「言葉のチカラ」なんて表現をすると、ちょっと大袈裟に聞こえてしまうかもしれません。

創作活動を続けていく過程で、否が応でも言葉と向き合わざるを得なくなりました。私はプロの小説家のように、うまく言葉を操れる人間ではありません。自分の内面から言葉を拾い出すよりも、実力ある他のクリエイター様の作品から刺激を受けて新しい方法を見つけていくことが多いです。そうやってnoteを続けていく中で「言葉のチカラって何だろう」という問いは、自然に発生してきたように思えます。

誤解を恐れず敢えて申し上げれば、私にとって言葉のチカラとは「破壊」であり「再生」でした。

十代の終わり頃から目まぐるしく変化する周囲の環境に、まともに息もつけず目の前のやるべきことに必死になっていた私は、そのやるべきことが一区切りついたときに抜け殻のようになっていました。燃え尽きた、と言ってもいいでしょう。あと残り一ヶ月ほどで社会人になろうとする、三月のことです。高校から続けていた創作活動は、気がつけば約一年間、手つかずのまま停止していました。数カ月前に起こった、家庭内の混乱が嘘だと思えるほど、静かすぎる寝室にひとり、私がいました。学生の間に結果を残そうとして、結局何も果たせないまま大人になってしまった私がいました。無性に怖くなって、取り憑かれたように高校時代の親友に電話をかけました。大好きな恩師にメールを打ちました。どんな内容でもいいから、誰かの声を聴きたかったのです。言葉が欲しくて堪りませんでした。そして、自らの空白を埋めるように、ゆっくりと、たまたま思い着いた小説を書き始めました。内容的には自分でも面白くないなとは思いながらも、ひたすらキーボードを叩きました。気づけば三百枚近く書いていました。きっと、やりたいこと・やれることが欲しかったのだと思います。結局コンクールには落選したけれど、執筆中はほんの少しだけ現実を忘れることが出来て、気分が落ち着きました。

創作活動を再開する前の一年間と、再開してから後の一年間を、まだ私は言葉にして昇華させることが出来ていません。ただひとつ確実に申し上げられることは、物語を読んだり書いたり、誰かと会話を重ねていく過程で、言葉のチカラを借りて「私が見ている現実」を壊そうとしていたことでした。壊す、という表現が不適切であるなら、現実を客観視する、だとか、相対化させる、とでも言い換えられるでしょうか。直視することの困難な現実を、あらゆる人の発する様々な言葉で一度解体し、再構成する。自らの内面で、その現実を受け容れられるようにするため、でした。私にとって創作は、余暇や娯楽のための玩具ではなく、その瞬間その瞬間を生きていくための「呼吸」のようなものだったのです。幸いに、それを強く後押ししてくれるだけの、数多くの「仲間」や「先達」の言葉、そして「作品」との出逢いがありました。ここでは書き切れないほど、皆さんから温かい言葉を頂きました。本当に「ありがとう」と思っています。今、私がこうして創作を続けられているのは、他でもない皆さんのチカラあってこそ、なのです。

抜け殻になった自分を埋めるように、私を励ましてくださった皆さんに何かを返せるように、noteで作品を書いてきました(noteという媒体を教えてくれたのも、大切な友人のひとりです)。もちろん、うまく書けないことだらけなのですが、どうにかこうにか、書き続けることは出来ています。本当に有り難いことだと思います。だからこそ、もっと良い作品を創りたい、書き続けたい。

やや話が脱線してしまいました。言葉の話に戻りましょう。言葉とは何か、という解答のない問題に私なりに答えるとするなら、それは私たち自身や私たちが生きる世界を認識するための方法(道具)だと考えています。例えば、「私は〇〇です」と自己紹介するとき、私たちは言葉で自己を説明しています。他者や人間以外の対象を表現するときも言葉を使います。これは決して「当たり前」の行為などではありません。なぜなら、言葉の使い方如何によって、その存在の認識(存在の価値や関係)すらも決定づけてしまうからです。

具体的に考えてみます。
学校などで特定の誰かを「あいつは馬鹿だから虐めてもいい」と劣位におくことも、言葉なら簡単にできます。本来複雑なはずの世界を「今は多様性の時代」などと一言で言い切ってしまうことも、可能になってしまいます。これは言葉のもつチカラの表と裏ではないでしょうか。使い手の意思ひとつで、その対象を良くも悪くも、複雑にも単純にも変化させてしまうのです。
つまり、裏返せば、言葉のチカラをうまく活用することで、私たちの認識そのものを変化させることができる、とも言えます。そこにある対象の認識を一度「破壊」して「再生」させる、そしてそのときに生じる心の変化、価値観の揺らぎを味わうこと。それを最大限に引き出す作業が創作なのかもしれない、と。

残念ながら、私は未だにそれを成功させるだけのチカラがありません。しかし、私が尊敬するクリエイター、アーティストの方々は、共通してこれを試みていると感じています(私が影響を受けた方々については、回を改めて書きたいと思います)。私も、もっと表現を知らなければならない、文芸を学ばなくてはいけないと思っています。いつか、しっかりと言葉をひとつのアート(芸術)としてとらえ、再構成できるようになりたいのです。この文章は、その第一歩として書いた、私の現時点の立ち位置でもあります。


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