言葉くづし 7―磯部大橋
「夏炉、待ちなさいっ!」
高速で回転する自転車のホイールが、銀色の光を照り返す。汗だくになった手のひらに力をこめて、ハンドルのグリップを握りしめる。浅野川の水流は地平線と交わるようにその背中を伸ばして、蝉時雨の満ちた夕焼けの空を反射している。
前へ、前へ。ひとつでも前へ。
浅野川の対岸に、夏炉が自転車を漕ぐシルエットが小さく見える。意外と体力があるのか、脚力が衰える気配はない。
放課後、校門で待ち合わせると言いつけた約束を彼女は見事に破って、私を見つけるやいなや、学校前の松寺橋を渡って逃げてしまった。追いかけようとしたけれど、橋の上は帰宅生徒の群れが行く手を拒んでいたので、やむなく対岸の道路を通って彼女の跡を追うことにしたのだ。
「どこまで手を焼かせる子なんだか……!」
このときの私は、まだ気づいていない。
夏炉が手を焼かせている訳ではなかった。連絡をするなとか、自分を追いかけてくれだとか、別に彼女が頼んだことではないのだから。
考えれば、脅迫紛いのメールを送った相手から逃げないほうがどうかしている。
私が勝手にヤキモキしていただけ。
私が勝手に追いかけただけ。
「磁場」というべき何かが私たちの間に存在していて、どうしようもなく互いに引かれ合い、反発していた。
「夏炉!」
川沿いの磯部大橋から稲田の広がるエリアへ曲がろうとした彼女を、私は必死に呼び止めた。
向こうの自転車が停まった。夏炉の表情は夕陽の影に隠れたままだ。
まったく微動だにしない。どんな罵倒も、どんな叱責も受け容れずに、あの子は無言を貫いて良い気になっているんだと思った。
「なんとか言いなさいよ! 同じアサ高の生徒だって、どうして教えてくれなかったの……」
チャンスはいくらでもあった。夏炉と連絡先を交換してから、私はすぐに自分が浅野川高校に通っていることを話したし、彼女もこの二週間で学校での出来事を教えるくらいはできたはずだ。
それなのに、意図的としか思えないような音信不通が続いてしまったのは、なぜだろう。
ゆっくりと夏炉が顔を上げる。その姿が茜色の光に照らされて、橋を挟んだ遠目でも感じる美しさを解き放つ。彼女は自転車に跨ったまま、じっとこちらを凝視したあと、わなわな唇を震わせはじめた。
その刹那。
私の手の甲に、一粒の雫が落ちた。
雫は、ひとつ、またひとつと数を殖やして、熱気のこもるアスファルトを濡らしていく。
それは実に半月ぶりの、天気雨。
ペトリコールが蒸気とともに立ち昇る。
蟬たちの合唱がぴたりと止み、局所的な夕立ちとなってあたり一帯を支配した。
その雨は夏炉の代わりに空が泣いてくれたようで。
口を噤んだ夏炉を優しく包み込むようで。
私たちふたりの感情をすべて肯定してくれる、不思議な温かさを有していた。
夏風が吹く。
紫立った雲がゆらめく。
私たちを取りかこむ「磁場」が、確かに変わった気がした。
私たちは、どちらからでもなく自転車を降りて、磯部大橋の両端から一歩ずつ近づいた。
頭が雨で冷やされる。呼吸が整う。
制服にはりついた水滴が玉の光を爆ぜる。
水たまりには私たちの街が映っている。
そのまま、まっすぐ橋の中央へ。
当たり前のことだけど、進み続ければやがて衝突する。それをわかっていながら、互いの視線を重ねては外し、外しては重ねを繰りかえして、ふたりの距離が縮まっていく。
三メートル、二メートル、一メートル。
心臓の鼓動と。
気まぐれな天気雨と。
そして、夕陽に包まれた、橋のまんなか。
案の定、ふたつの細い前輪がぶつかった。
ああ。
やっぱり私たち、バカだ。
「冬花!」
自転車を手放して、夏炉が私を強く抱きしめる。
二台の車輪が折り重なるように激しく倒れる。
夕陽に染まる雨が浅野川に波紋を生み出して。
赤く泣き腫らした瞼を相手の襟元に擦りつけて。
頭ひとつ分ほど背が低い彼女が、いまはとりわけ幼く感じられた。
「私ね……。留年したの」
夏炉が、流れる雨に身を任せるように言った。
「うち、進学校じゃん? クラスメイト、成績の良いひとばっかでさ、私なんか、劣等感けっこう感じちゃってさ。だんだん授業に出るのが怖くなって、病気しやすい体質も災いして……。学校を休むようになったら、本当に行けなくなっちゃって。また、一年生からやり直しになった」
私は、そっと彼女の熱くなった後頭部に手を回した。
「ごめん……知ってたよ」
え? と驚いた風に彼女は目を向ける。
「私、あなたと新田先生との会話を聞いた。担任が細川先生のクラスは一年四組。だから放課後、自分の目で確かめに行ったの」
正直、行かなければよかったと後悔した。
男子グループが噂するのを聞いてしまったから。
霧島小夏という女の子がいて、学校を休みがちなこと。
一年のときの彼氏とトラブルがあったらしいこと。
――きっとあいつはまた留年確定だよな。
――懲りずに男と遊んでんじゃねえの。
彼らは、はっきりとそう言っていた。
人を傷つけることを何とも思わないそぶりで。
夏炉は身体を萎えさせ、目を伏せる。そのまま崩折れてしまわないよう、私は必死に彼女を抱きとめた。
「絶対、絶対にあいつらを許さないと思った。そして、打ち明けてくれないあなたも許さないと思ってしまった。仮にも、私に本気でぶつかってきたあなたが、警官を騙して姉妹のフリをしてくれたあなたが、私に大事な隠し事をしてるなんて認めたくなかった」
だから、無性にあなたを傷つけたかった。
最低だ。
私には、人を大切にする資格なんてない。
本当は、夏炉を抱きしめてはいけないんだ。
夕立ちの音が鎮まり、雲の動きが緩やかになる。
夏炉の胸がすぐそばで膨らんで、鼓動を伝える。
「私なんかを……私なんかを、正しく傷つけてくれて、ありがとう」
半歩引き下がった夏炉は、大きく左手を振りかぶって。
バチンッ!!
渾身の力で放たれたビンタは、私の頬に焼けたような痛みを与えた。
「さあ、かかってきなさい」
私もひとつ深呼吸をして、夏炉の頬を思い切りぶった。少々、力みすぎたようだ。
「ちょっと冬花! 私、か弱い女子なんだから手加減しなさいよ! デリケートなお肌が腫れちゃうわ」
「夏炉だって本気でぶったくせに。これでおいあいこ、恨みっこなしよ」
「恨みます〜っ! ぜ〜ったい、恨むから!」
しばらく言葉の応酬が続いたけれど、だんだん喧嘩している自分たちが可笑しくなって、私たちは同時に吹き出してしまった。
浅野川の上空には大きな虹が雲を結んでいる。
「本名、バレちゃったのね。《夏炉》は、SNS用に作ったハンドルネームよ。アサ高の生徒だと分かれば、そこから留年のこともバレるかもしれないと思って、本名を隠した」
うーんと夏炉は背伸びして言った。
「でも、バレてしまえば、そんなものなのね」
恥ずかしそうに、微笑んで見せる。
「《小夏》も素敵な名前だと思うけど。今までどおり、夏炉って呼んでいいかな」
「別に構わないけど……。本名とハンドルネーム、両方を知ってくれるひとは初めて。なんだか不思議な感覚だわ」
それが、夏炉にとっての「あったかいかんじ」だったらいいなと、私は心からそう願った。
「もー、美少女ふたりがすっかりびしょ濡れだわ。もしやこれ、男子にとってはちょっとエロいシチュエーションだったりする?」
「何よそれ、誰も見てないじゃない……って、あなたいま『美少女ふたり』とおっしゃいましたよね!? とうとう私の可愛さに気づいてくれたってことですよね!? そうよねそうよね、私だって美少女だもんね。さすが夏炉さん、お目が高いわあ!」
興奮気味に詰め寄る私だったが、夏炉はニヤリと笑って私の唇にピタッと指を押し当てた。
このシチュエーション、どこかで覚えがある。
「フフフ。徳田冬花さん、あなたが私の美貌に勝とうなんて一億年は早いわよ。だって特に、バストサイズなんか……」
ちょっと待って!
もしかして、さっきハグしたときに……!
堪らず、顔を真っ赤にして私は夏炉の腕を引き剥がした。
それは、ずっと密かに気にしてた大問題……!
「この、ヘンタイ野郎〜〜!!」
私の叫びは、薄闇の迫る夕暮れに溶けていった。
(つづく)
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