言葉くづし 4―梅ノ橋
錦絵に描いたような、見事な満月の夜。
先週の大雨が嘘のように、おだやかな川波が静かに岸辺を洗っている。
しかし、そんな景色のおだやかさに反して、私の心はひどく焦っていた。自転車のペダルがせわしなく回転して道の砂埃を巻き上げる。
待ち合わせ時刻から、十五分以上の遅刻。
すべては「お義母さん」のせいだ。
父は病院の夜勤で家を空けていたのだが、そうなると「お義母さん」が寂しさで憂鬱になるようで、なかなか寝室に入ってくれない。玄関に通じるリビングでいつまでもハイボールを飲みつづけ、三流ドラマをぐだぐだ眺めるばかり。
ようやくお義母さんがリビングから立ち去ったのは、午後十時五十五分を過ぎていた。約束の十一時までには絶望的だ。
夏炉のスマホに、遅刻を詫びるメッセージを送っておいた。すぐに既読がついて、「しゃあねえな」とサルが腕組みしているスタンプがポンッと送られる。サルの表情は、じわっとくるユルさ。
夏炉からのスタンプに救われたけれど、きっと機嫌を損ねたに違いない。
ほんっと、私って間が悪い。
肝心なときにかぎって、物事がうまくいかないことばかりだ。
私のなかのタイミングと、世間との流れが噛み合わない。たいてい、どちらか一方が先走って、私が失敗するか、世間が私を置いてけぼりにしてしまうか。要するに鈍臭いのだ。要領とか臨機応変とかラッキーとか、人生をうまく進めていくための機微は私の遺伝子に含まれていないらしい。
両親や育った環境のせいだ、と言ってやりたいけれどそうもいかない。きっと、私のなかにある「何か」が世間様とずれている。それが自覚できてしまうから、余計につらかった。
せっかく夏炉に合わせて白のワンピースでコーデしてきたというのに。遅刻しては効果減退だろう。とてももったいない。
悔しさが募り、ペダルの漕ぎ方が自然と荒っぽくなった。いまはとにかく、待合せ場所の梅ノ橋を目指すほかはない。
東インター大通りを南下すると、残業帰りのサラリーマンや飲み会後らしき大学生の集団とすれ違った。ラジオの爆音を轟かせる自動車とも遭遇した。この時間に女の子ひとりで出歩くのは珍しいせいか、ちらちら好奇の視線を向けられているのを背中で感じる。
大通りばかりを走っては、怪しまれるな。
途中から街灯の少ない裏道に侵入し、東山の複雑な迷路を慎重に進んでいくことにした。宇多須神社の横を突っ切り、一方通行の道をまっすぐ行くと、徳田秋聲記念館の建物が見えてくる。そこまで来れば梅ノ橋は目の前だ。浅野川から吹く木の匂いのまじった風が火照った肌をなぞり、背中の汗がすうーと冷えていく。
夏炉、どこにいるかな。
ちかくの公園に自転車を停め、橋の左右に視線を巡らせる。しかし、夏炉の姿はどこにも見えない。もしかすると、川の向こう岸にいるのかもしれないと考えて、私は梅ノ橋の階段に足をかけた。
スマホの着信音が鋭く鳴り響いたのは、まさにその時。
ひらいた画面に浮かびあがった夏炉のメッセージに、私は息を呑んだ。
『まずい。警官にバレた』
心臓がきゅっと摘み上げられる痛み。しだいに呼吸が荒くなり、口に血の混じった唾の味が広がった。
バレた……!?
でも、私のそばに警官らしき人影はない。ひとまず梅ノ橋のたもとの階段下に身を隠してあたりを窺っていると、対岸の方からチカチカとスマホのライトが点滅しているのがわかった。
夏炉からのサインだ。
対岸の「鏡花の道」の側から、なにやら話し声が聞こえてくる。真っ暗だからよく見えないけれど、背の低い人影と、二周りほど大きな人影とが向かい合ってやりとりしている。ときおり怒声のようなものが響いてくるあたり、おだやかな会話でないのは明らかだ。
どうしよう……。
橋の下から身動きが取れないでいると、ふたたびスマホが震動した。
『あなたは逃げて!!』
私の手が震えだす。立てつづけに次のメッセージが飛んでくる。
『警官には家族に連絡するって嘘ついて冬花に送ってる。こっちは身バレしないようテキトーに誤魔化すから、今夜は解散にしましょ』
私は悔しさの余り、液晶画面に額をぐうっと押し当てた。
お義母さんがさっさと早く寝ていたら。
私が要領よく夏炉と待ち合わせできたのなら。
夏炉がひとりだけで怒られずに済んだのに。
こんなのはずるい。私はずるい。
夏炉ひとりだけに背負わせるなんて。
しかし、次に送られたメッセージで、私はもう一度驚くことになった。
『このひと、私の家まで送るって言ってきた……。まじめんどい』
抵抗を諦めたごとく、対岸からのライトはふっと灯りを消した。二人の影が、ゆっくりと川を遡るように歩いていく。
これから先、夏炉がどんな処分を受けるのか、想像するのさえ恐ろしかった。きっと保護者にも事がバレて後で厳しく叱られるだろう。もしも、夏炉の通っている学校にも伝えられてしまったら……。その根本の原因はすべて私にあるというのに、あの子は非行のすべてをひとりで引き受けようとしている。
空には、狂ったように美しい満月が昇っている。
橋のこちら側と、あちら側。
私の世界と、夏炉の世界。
その間に横たわる浅野川は、無言のまま日本海を目指して、悠久の流れを止めようとはしない。
ああ、この虚しさが。
苦しさが。無力さが。
この金澤で感じてきた時間の流れ。
私のなかで、「何か」が弾けた。
恐怖とか、正義とか、体面とか。
私の自由を縛りつけてきたあらゆるものが、一挙に弾けた。
ああ、どうか。
もしも。もしも。
私の心のなかに、神様がいるのなら。
「夏炉ぉっっっ!!!」
甲高い叫びと、階段を駆け上がる足音。
「夏炉ぉっっっ!!!」
私は、自分の行動に迷わなかった。
満月に照らされた橋の上を、白いワンピースがまるで扇のようにふわりと舞う。
浅野川を反射する光のゆらめき。真夏を迎えようとする風のふくらみ。すべての時間が私のために止まったような、恍惚とした浮遊感。
周りなんて見向きもしない。ただひたすらに、夏炉を目指して全速力で梅ノ橋を駆けてゆく。
恐怖も、正義も、体面も。
苦しさも、虚しさも、美しさも。
いまの私には、なにひとつ要らないんだ。
若い男性の警官がこちらを振り向く。突然の叫びと足音に驚きを隠せないでいるようだ。隣にいる夏炉の姿もはっきり目に飛び込んできた。彼女は顔を引き攣らせて、表情を険しくする。
「あなた、どうして!?」
悲しみに満ちた夏炉の怒声。せっかくの機転を私がぶち壊したんだから無理もない。
「あの、おまわりさん!」
夏炉と警官に追いついたのは、奇しくも「瀧の白糸像」が立っている場所。
「妹が、すみませんでした!」
額に膝が触れるくらいの角度で頭を下げる。警官は突然のことに状況を把握できていないようだ。これはチャンスとばかり、大量の情報を一気に注ぎ込む。
「さっき私、家で妹と大喧嘩してしまったんです。この子、個人的につらいことがあって、それを私が下手にフォローしちゃって、怒った妹が飛び出してしまって……。この子がなんて説明したか知らないですけど、原因が喧嘩だからおまわりさんにも助けを呼びづらくて。浅野川の河川敷とか、茶屋街とか、久保市乙剣宮とか、ずっとずっと探してたんです。そしたらおまわりさんの声が聞こえて、それで……」
一息で喋りすぎたせいで、口の中に血の味が充満した気持ち悪さに言葉が詰まってしまった。次がつづかず、崩折れるようにしゃがんで咳が出た。垂れた前髪のすきまから警官の様子を観ると、私の鬼気迫る演技に圧倒されたようだったが、果たして信憑性があるのか否か測りかねているらしかった。
すると、思いがけず夏炉が動いた。
「もう。もういいよ」
汗だくになった私の首筋に、夏炉が細い腕をそっと回す。柔らかな素肌と、心とろかすような甘い洗剤の香り。ウェーブのかかったお下げ髪が頬に触れる。
私の心拍数は、いろいろな意味で百を超える。
「喧嘩なんてもういいからさ。おうちに帰ろう。お・ね・え・ちゃ・ん!」
健気に即興の寸劇に合わせてくれているのだけど、めちゃくちゃ嫌そうな口ぶりで「お姉ちゃん」と発音する。その証拠に、夏炉は警官に気づかれない範囲で、長い爪を私の頸動脈にミシミシ突き立ててきやがった。
私の顔面は、いろいろな意味で青ざめる。
警官はひとり蚊帳の外で、互いに身を寄せ合う「姉妹」を困り顔で眺めている。ぽりぽり鼻頭を掻きながら、どう対応すべきか迷っているようだったが、とうとう諦めてくれた。
「事情は理解したけれどね、こんな夜更けに出歩くのは危険極まりないよ。今回は厳重注意にしておきますがね……。姉妹喧嘩もほどほどに」
そう言って、それぞれの連絡先だけを聴取されて引き下がった。家まで送るという彼の提案を私たちは全力で断り、街灯の明るい大通りのところで完全に離れることができた。
「冬花、いつまで手を握ってるつもり!?」
夏炉が疑似「姉妹」用につないでいた手を乱雑に振りほどく。あたりを見回しても、車の往来が多少あるきりで人影はまばらだ。夏炉はケガレたものにでも触れたように、つないだ方の左手をシッシッと払っている。
「なによ失礼な! だれのためにひと芝居打ったと思ってるのよ。鈍臭く夏炉がおまわりさんに捕まったりするからでしょ!」
「芝居打てなんて、私ひとことも頼んでませんけど。よくもまあ、自分が遅刻したことを棚に上げて減らず口を叩けるもんだ。それに! どーして私が妹役なのよ! ルックス、知性、要領、どれを取っても冬花より優れてるのに!」
「姉妹と能力は無関係でしょう? ていうか、二回しか会ってない他人の能力を勝手に決めつけるなあっ」
そう。私たちは、まだ二回しか会っていない。
それなのに、こんなにも近い「距離」で話してしまっている。
ドキドキして、ヒヤヒヤして、イライラして。
大雨の真夜中に出会い、乱闘して。
今夜は警官に捕まって。
私たちの関係は、すでに波乱に満ちている。
そして、とても不思議なことに。
「さんざんな目に遭ったけど……なんとか生きて家に着けたわ。これは人類最大の奇跡ね」
夏炉が三階建ての立派な家屋の前で立ち止まる。石造りの表札にはおしゃれなローマ字で《Kirishima》という文字が彫られていた。
暗がりで外観はよく見えないけれど、奥にあるのだろう中庭からは上品な薔薇の芳香が漂っていた。抱きつかれたときに感じた洗剤の香りと似ていると思った。
「今回の件でカンペキ懲りた! やっぱり、密かに夜に落ち合うのはいろいろ危険よね。もういっそ、白昼堂々とお話ししましょ」
そう言って、すっと左手を差し出す。
私は緊張したけれど、すぐに肯いて相手の掌をしっかり握った。
「私の方がお姉様だってことを解らせるまで、冬花には付き合ってもらうからね」
「はいいいっ〜〜?!」
高慢で、ワガママで、頑固で、事あるごとにイライラさせられて。
そんな夏炉を助けるために警官に嘘をつくなんて、決してしてはいけないことと分かっていて。
それでも私は、満月の架かる橋の上で夏炉の名前を叫んでしまった。叫ぶことができてしまったんだ。
その最大かつ最高の理由は。
「じゃあね、冬花。おやすみ」
「おやすみなさい」
夏炉と話していると、不思議とあったかいかんじがするからなんだ。
(つづく)
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