1. 忘れえぬ紋章
喫茶店「ウラヌス」の店内は芳醇なガリシアン・コーヒーの香りがただよい、シックな音楽が流れている。店のバルコニーからはウノ市街をまっすぐ貫流するイニティウム河のちから強い景観を見渡せ、この国随一の名所として知られていた。
青年のエルクルド・エーフォイは一枚の求人広告を四つ折にして、裾の長い黒のフロックコートの中にしまった。正午が近づくにつれて、着岸した客船から人々がどっ吐き出された。
人々の目的はただひとつ。ウノ市街のメインストリートで開催する、盛大な戦勝パレードである。
今日から一か月前、帝から直々にパレード開催の御触れが発布され、国中の人々は色めき立った。それだけの長い期間、娯楽となるような催し物に乏しい日々を強いられてきたからだ。
今日から一年前、戦争が終結した。
今日から三年前は、劣勢だった戦況を挽回した。
今日から十年前は、屈辱の年。敵の奇襲を受けて都市部が壊滅し、人も物資も甚大な被害を出した。
そして二十年前の今日、この悪夢のような戦争が勃発した。
いつの頃からだろう、エルクルドは今日という日から順に時間を遡って過去を思い出してしまう癖がついていた。しかも思い出すことがらは、たいていが悪い記憶ばかりだ。
ガリシア帝国に暮らす人々のだれもが勝利の美酒に酔いしれるなか、彼ひとり胸の震えを抑えられずにいる。
脳髄が痺れるほどの奇怪な笛の音に狂乱する、仮面の男たち。
悪魔に心臓を抜かれたような叫びをあげる、逆さ吊りの子どもたち。
エルクルドは必死に悪い記憶を頭から追いやって、濃厚なコーヒーを喉に流し込んだ。外では隊列を組んだ二十人ほどの男たちがダヴル(両面に皮革を張った大型の太鼓)を首から提げて準備を整えたようだ。彼らの一糸乱れぬ所作の美しさに、周囲から黄色い喚声が上がる。
正午を知らせる教会の鐘が鳴った瞬間、数十羽の鳩が一斉に青空に放たれた。それを合図に、ダヴル隊の演奏がはじまった。
〽天つ風は 吾らの文を運んでくれる
主の御許へとどけと 祈った数だけ
母なる大地を 秋の長雨が潤すように
それは約束されたこと それは約束されたこと
修道院の女たちが高らかに聖歌を歌いはじめた。張りのある演奏と、慈愛に満ちた歌声がひとつに溶けあって、あたりは言葉にならない恍惚感に包まれた。
戦争で大切な家族や恋人を失った者も多い。パレードのなかには、つらかった戦時下を思い出して涙を流す者もいた。
しかし、エルクルドは――いや、彼は古い友人からはエルと呼ばれていたから、これからはエルとしよう――は、大勢の人々が何かに熱狂する状況があまり好きでなかった。周囲の感情が熱くなればなるほど、自分の心はうす寒くなってゆく。どうしてか身の危険まで感じてしまう。はっきりした原因はわからなかった。
「不安の原因は、こいつか……?」
エルは小声で、コーヒーを飲み干したばかりのカップを爪でこつんと弾いた。カップにはこの国では見かけない不思議な紋章が描かれている。
大きな八芒星の図柄がカップの中央にひとつだけ浮かんでいる。その星の両わきを挟むように、螺旋形に絡まった蔦が囲んでいる。
エルの背中には鳥肌が立っていた。見たくないものを見てしまった。それも、思い出したくない古い記憶と共に、である。
今日という日を遡って考えてしまったのも、きっとこいつのせいだ。
――わしらは、運命の網籠に捕らわれたお星さまのようなものじゃ。
かつて、エルの祖父がこの紋章を指さして聞かせてくれた数奇な物語。エルはそれを思い出すと、これから何が起きてもおかしくないという予感に否応なく苛まれた。
彼は目を凝らして、同じ紋章が他にないか店内を見回した。しかし、大体がごく平凡な食器ばかりだったので、それがわかると彼はいよいよ不機嫌になった。
何者からの暗号。いや、予兆と言っていいかもしれない。この手の「メッセージ」を彼は軍隊にいたころ何度か経験している。
しかし、エルは高まる心臓の鼓動をひとつ息を吐くだけで抑えてみせた。わずかな感情のゆらぎが、戦場では命取りになる。それを彼はいやというほど知っていた。
――面倒事に巻き込まれないうちに、カフェを出よう。
エルは身なりを整えて足早に店を出た。錆びついた階段を降りて狭い小路をなぞるように進んでゆくと、「裏の市」と呼ばれる古い商店街にきた。パレードの会場に人々が集まっているせいか、街の外れの商店街は客足がまばらになっていたが、店の者たちは変わらず商売に精を出している。それが彼には有難かった。
何か買って食べようと、彼は軽食屋の男に声をかけた。
「ピンチョスをください」
「あいよ。一個おまけしとくね」
ピンチョスとは、ガリシア地方に伝わる郷土食である。イニティウム河で獲れた「メルサ」という白身魚を油でカリカリに揚げたものを窯焼きパンに楊枝で刺して食べる。エルは出来たての温かいピンチョスを頬張るうち、ようやく心が落ち着いてきた。
何事もなく進んでいくパレードの行列を眺めながら、エルは胸を撫で下ろした。長い旅の疲れが溜まっているのだろう。そう自分に言い聞かせて、エルが屋台を出ようとしたときだった。
女性の悲鳴が、聞こえた。
乾いた口笛のような短い悲鳴だった。エルは本能的に、その女性がすでに絶命したことを悟って戦慄した。次の瞬間、ガラガラとバラックの屋根が崩れる音がしたかと思うと、大の男が二人、血を流して路上に投げ出された。両人とも気絶している。
商店街は大混乱に陥った。
逃げ惑う人々をかき分けて、エルが商店街の東へ進んでいくと、ぬっと人影が現れた。一・八ターレル(約二メートル)はあろう屈強な大男である。
背中に抱えた袋からは大量の金塊が光っていた。強盗は、大きな血だらけのナイフを振り回し、抵抗する者たちを次々に薙ぎ倒してゆく。
まさに狂った暴れ牛のごとく。
だれも強盗の蛮行を止められない。
強盗が、商店街に独り立ちつくすエルの姿を見つけた。
あたりは生臭い血と煙の匂いで充満している。エルは薄い麻布で顔全体を覆っていた。一見、彼はただの色白で痩せっぽちの青年である。それゆえ、このまま突っ込めば簡単に倒せると、強盗は思った。
涼しい秋の風が一瞬にして殺意の色に染まる。
強盗は両脚に弾みをつけて、勢いよく肉迫した。
直撃すれば骨折は免れない必殺の鉄拳。
振りかざした太い二の腕が虚空を切り裂いた。
この間、エルは今日の出来事を思い出していた。
もしも雨でパレードが中止になれば、きっと強盗は現れなかった。エルが道端で求人広告を拾わなければ、面接のためにウノ市街に来ることもなかっただろう。おかしな紋章にびびって早々とカフェを出なければ、強盗と鉢合せしなくても済んだのだ。
自分の行動や選択が、目の前の悲劇を生んでいるのではないか。迫りくる強盗の巨体を前にして、そんな気味の悪い想像が彼の胸を締めつけた。
〽母なる大地を 秋の長雨が潤すように
それは約束されたこと それは約束されたこと
聴いたばかりの讃美歌の詩句が、脳の奥で反響する。
「頼むから、勘弁してくれ」
このままだと流血沙汰は免れない。絶対に「彼」は負けてしまうのだ。
エルが、負けるのではない。
強盗が、負けるのである。
エルの左目が一瞬、緑の閃光を放った。
強盗は鉄拳を振り下ろす直後、自分の身体がふわりと宙に浮かぶのを感じた。
はじめ強盗は自分に何が起きたか分からなかった。エルを殴り飛ばした弾みで浮かんだのかと錯覚したくらいだった。
しかし、それは間違いだった。
鉄拳の衝撃が、すべて封じられている。
しかも、薄っぺらいエルの右手のひらだけで受け止められていた。エルのか細い骨格を通じて衝突のエネルギーが地面へと逃がされ、黒い土煙となって激しく巻き上がる。
黒煙のなか、エルの瞳がいっそう緑の光を解き放った。
「弱いな」
強盗はこれまでにない戦慄を感じて、とっさに左手でエルの胸倉をつかもうとした。しかしすでにエルの姿はなく、つかみ損ねた勢いで体勢を崩した。
背後に滑り込んだエルは、すかさず相手の頸動脈に手刀を一発くらわせる。強盗の意識が数秒、飛んだ。
そのままエルは男の懐にもぐりこみ、背負い投げの要領で強盗を煉瓦塀に叩きつける。頑丈な干し煉瓦が砂礫のように砕け散った。
強盗は頭から血を噴き出して悶絶した。
あたりは一瞬にして鎮まりかえった。あまりの神技に、皆が状況を理解できなかったのである。
レンガの瓦礫に逆さまに埋まっている強盗を尻目に、エルは急いでその場から離れた。街の守衛に見つかれば一大事だからだ。顔は相変わらず麻布で覆い隠していた。
やがて守衛や雑役夫たちがやってきて、にわかに騒然となった。
エルは、とにかく走った。湿っぽい路地裏をひたすら走って、走って、走った。
追手がやってこられない安全な場所へ。
いまの騒動を目撃した人がいない場所へ。
自分の本性を知られない場所へ。
やがて、ゆるやかに長い凸凹の坂道につきあたった。
中心街から遠く離れた郊外に、その建物はあった。
エルが就職の面接を受けようとしていた場所――私立ミレトス学院。ガリシア帝国を代表する名門神学校である。
公にひらかれた学校とはいえ、帝国の皇権が及ばない特別な私有地のひとつに定められている。ひとまず身を隠すにはうってつけの場所といえた。
エルは歯を食いしばり、一気に坂道を駆け上がった。
(つづく)
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