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そして誰も来なくなった File 10

大学に入ってから体育の授業を取らなくなり、運動不足だった足がすでに悲鳴を上げている。豆電球が列になって続く青白い通路を、マーガレットの背中を追いかけて歩く。羨ましいほどの長い足をしているので、歩幅も大きく、小柄な美里はついていくのに必死だった。

「どれだけ歩くんですか?」

とうとう根を上げてぺたんと冷たい地べたに座り込む。小学校の遠足で通った狭いトンネルの地面と似ている、無機質な肌触りだった。

「あと、四十分ってところかしら」

高級そうな腕時計を確認してマーガレットは言った。優に一時間半は歩き続けている。そろそろ休憩しないかと全身で訴えるように、美里は大の字になって床に広がった。

「まったく。根性がないわね。探偵になれないわよ」

「なれなくてもいいですよ…私…」

「あら、飛鳥くんは探偵のような好奇心と忍耐力をもった女性がタイプだって言ってけど?」

刹那、美里は腹筋の力だけで身を起こした。体操の選手もかくやというべき美しいフォームである。

「歩きます! 歩きますとも! ハッッハッハ!」

そんな美里をじっとりした眼でマーガレットは眺めている。溜息をつくと、「わたし、本当に恋愛に縁がないのね…」と呟いた。焦りを感じた美里はぐいっと体を近づける。

「まさか、マーガレットさんも…」

マーガレットは冷徹な悪魔のような視線を注ぐだけである。

「あなた、私に殺されたいのかしら?」

「い、いえ…」

二人は無言で歩き出した。三メートルほどの距離を保ちつつ進んでいく。ここは地下空路のようで、館の位置から島のほぼ対角線上にある部屋をつないでいるようだった。マーガレットが入り口を見つけたのが午前五時五十分ごろ。そこから二時間ほどかけて美里の閉じ込められた部屋へたどり着いたと説明してくれた。

「あの、お尋ねしたいんですけど」

マーガレットは「何?」とは尋ねずに手をひらひら振って先を促した。

「どうして、招待状を投げるとこの空間への扉が開くのでしょうか」

マーガレットはくいっと立ち止まって美里を見た。その唇は人を吸い込むような妖しい魅力を放っている。女性である美里も、ごくりと生唾を呑み込んだ。

「どうしてだと思う?」

昨晩、マーガレットは飛鳥と別れた後、独り自室に戻って考え事をしていた。なぜ美里が消えたのか、合理的な理由を見つけたかった。停電から復旧までの五分間で、ダイニングで今藤はじめを殺害し、美里に有無を言わさず誘拐するには、たった一つの方法しかない。自分たち招待客には知らせていない別の空間が存在して、そこへ美里を一時的に閉じ込め、隙を見てどこか安全な場所に移動させるほかはないのである。

問題は、その空間をいかに見つけるかだった。かねてからダイニングが怪しいと疑っていたマーガレットは、深夜にダイニングを調べていった。部屋の壁や天井、テーブルの下などを隈なく探ってみると、ダイニングの奥の壁に、わずか一ミリほどの隙間があると気づいた。もちろん、紙切れ一枚がようやく挟まるかどうかの隙間だったが、何かあるに違いないと、探偵としての勘が刺激された。

「飛鳥くんは、しきりに彼と私の招待状を見比べていた。ほぼ同じ内容なんだけど、はっきりと異なる部分が存在していた。彼のはシンプルな白のデザインだったのに対して、私のは星条旗と赤い背景で印刷されていたの」

「ふんふん。マーガレットさんのって、アメリカと中国みたいですね」

マーガレットは怒ったような、恐れるような表情をした。

「貴女って、あの子のカノジョだけあって賢いのね」

「え? いやあ、それほどでも…!」

ぐさりと美里の脳天に拳を突き立てるマーガレット。頭を押さえてうずくまる美里は実に哀れである。

「まあ、いいわ。とにかく私にとって、アメリカと中国は切っても切り離せない国同士なのよ」

「全然ちがう国ですけど?」

「ええ。ちがう国であるがゆえに、私は悩んだ。いえ、私の血筋はみな、両国のイデオロギーのちがいに悩み苦しんできた家系だと言っても過言ではないわ」

血筋、という言葉に、美里の背中に奇妙な悪寒が走った。美里は母方・父方とも実家の仲が良い家庭で育ったので、血筋と言うよりも親戚と言った方が馴染み深い。悲しいことに、母方の祖母は他界してしまったけれど、家族間の交流は支障なく続いている。時折お菓子や野菜が届くことも珍しくない。それに対してマーガレットの語る血筋とは、一筋縄ではいかない問題を孕んだまま揺れ動いてきた、いわば傷から流れている不気味な液体を含んでいるようだった。

「さんざん悩み疲れて、この島でもその過去を思い出して、とうとう自暴自棄になった。あんな若い子に痛いところを指摘されてムキになるような、私の弱さを痛感した。だから、えいやって、あの招待状を投げ捨てたの。簡単には届かないくらいの距離へ」

「そうしたら、扉が開いた」

「ええ。驚いたわ。同時にすっきりもした。もう私は過去に囚われなくていいんだ、自由な未来に進んでいいんだって思えたの。飛鳥くんのお陰ね」

再び歩き始めたマーガレットの背中を、美里はしんみりと見つめている。

「つまり、届けられた招待状はそれぞれ、『人を縛り付ける過去』を表しているんですか?」

「おそらくね。私にとってのそれは『アメリカと中国』だった。貴女にとってのそれは…何だと思う?」

美里は立ち止まった。外の雨が漏れているのか、ポタリ、ポタリと水が滴っている。

「認めたくありませんが…招待客リストの『佐渡飛鳥』だと思います」

「正直ね、貴女。見直したわ」

「いえ、私の招待状もシンプルですから。唯一引っかかっていたのは、あいつの名前だけ。この名前を追いかけて、わざわざ怪しい誘いに乗ったんです。だから、マーガレットさんに招待状を投げつけたとき、扉が開いた。それまであいつの名前が載っている紙を手放すことができなくて、無意識のうちに肌身離さず持ち歩いていましたから」

「教えてくれてありがとう。きっと、レーザーに反応するかどうかも、招待状が関係していたのね。招待状が一種のセンサーになっていたのよ。避雷針のような装置が内装されていて、招待状をもったまま近づくと自動的にレーザーが発射される仕掛けになっていた」

「なるほど。手が込んでいますね」

「そうね。テーラー本人に会ったら、うんとお返しをしてやるわよ。…ほら、もう少し」

十五分ほど進むと、蛇のように曲がりくねった地下空路は、前方五メートルほど先で右に曲がっていた。この先に梯子があって、ダイニングへ行けるのだと誇らしげにマーガレットは言った。

「ほらね!」

待ちきれず曲がった先には、大きな球状の空間に白い明かりが満たされていた。出入口と思しき開閉式の窓は、遥か十メートルほど上方に設置されている。

「あの、マーガレットさん」

美里は恐る恐る言った。

「梯子、ありませんけど?」

ただ広い空間があるだけで、他の道具らしきものは一切なかった。背中に嫌な汗が滲んでくるのを感じずにはいられなかった。

「おかしいわね…」

周囲を見渡すマーガレットも、眉間に深い皴を刻んでいる。

「ノイ・テーラーに閉じ込められたってこと、ないですよね?」

「ないわよ、彼だってそこまで人が悪くないわよ。ホホ…」

そのとき、耳をつんざく破裂音が響いて、足元がぐらついた。続いて、もと来た道から、怒涛のごとく水が押し寄せてくる。マーガレットは表情ひとつ変えずに、顎に手を当てて静かに分析をし始めた。

「ここは地下十メートル。雨季にたまった水を処理する巨大な貯水槽があってもおかしくはない。もし私がノイ・テーラーだったら、秘密を知った人間を地下空路で活かしてはおかない。出入口を塞いで、貯水槽を爆薬で破壊してしまえば、もれなく溺死体の完成! ってわけね」

「なるほど…って、気取って推理してる場合ですかあ! 逃げますよ!」

美里は、マーガレットの手を握りしめて走りだす。しかし、すでに地下空路の端にまできてしまっているので、これ以上逃げる場所がない。押し寄せる水流に倒されないよう壁際に移動して、必死にバランスを保っていると、あっという間に膝上まで水が貯まった。ほとんど身動きが取れない。水嵩は益々増してきているというのに。

「私、まだ死にたくないですよ!」

美里は考え込んでいるマーガレットをよそに、天井の窓に向かって叫んだ。

                            (つづく)






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