心の音
強い雨が降る夜は、ゆずの唄と共にこんな出来事を思い出す。
この事業所に入ってから、誰よりも早く電話に出るようにしている。
まだ仕事を始めたばかりの、何をしたら良いかわからない時、せめてみんなの役に立とうと思いついた仕事だ。
事業所名さえ言えれば、電話には出られるから。
ハヤくん、としておこう。
デイケア、デイサービス併設のこの事業所に私が入職してから、ずっと相談員の業務を教えてくれた先輩だ。
入って2ヶ月足らず。彼は亡くなってしまった。
そのハヤくんが亡くなる前の話。
電話には出るけれど、事業所名で噛む癖のある私を見ないように笑いを堪えるハヤくん。
「次はちゃんと言いますよ」
内線で相手を呼び出し、取り次いでから、膨れっ面で私が言った。
「慣れです」ハヤくんが大きく頷きながら、フォローを入れてくれる。
「分かってます」
二人で並んで、サービス提供票の実績を付けていた。
朝は介護士たちが利用者さんの送迎に出掛けている。
留守番の数人で、お風呂のお湯を溜めたり、翌日の利用者の名札を用意したり、各々の仕事をしていた。
電話は鳴るけれど、利用者さんはいないし、細かい作業を集中してやれる貴重な時間だ。
そんな事をしていると、ハヤくんがふと立ち上がって私の後ろを通った。
それから、送迎用電話…送迎車ごとに担当者が持っている携帯電話があって、この事業所に置いてある送迎時専用のホットラインとなる携帯電話だ…をとった。
「はい…はい、分かりました」
明らかに、ハヤくんより私の方が近くにいたのに、全然気づかなかった。
「すみません、取っていただいて」
「大丈夫です」
ハヤくんは、固定電話の方から内線で他部署に指示を出した。
「聴こえませんでした…」
私が言うと、ハヤくんが、不思議そうな顔をした。
「えっ、聴こえませんでした?」
「はい」
お喋りをしていたわけではないが、同じ方向から、ラジオの音が聴こえていた。それで分かりづらかったんだろう。
「すみません、耳があんまり良くないので。呼び出し音、音を大きくしてもいいですか」
ハヤくんはちょっと考えて、私の言葉に頷いた。
その後、固定電話がまた鳴った。
私が受話器をぱっと取った。
今回は噛まずに事業所名を言えた…が、相手は反応できないのか、名乗らない。代わりに受話器の向こうから、おかしな音が聴こえてくる。
水がずぶずぶと流れ込んでいく排水管に耳を押し付けた時のような音。
「おはようございます、○○さん。さかきです」
「あら〜さかきさん。まだ名前も言わないのに、よく分かったわね」
受話器から漏れる声が聴こえるのだろう、だいぶ間を置いた後、利用者の甲高い声が受話器から聴こえると、ハヤくんが驚いてこちらを見ていた。
やり取りの後、私は受話器を置いた。
「○○さん、今日は利用の日かどうか、知りたかったそうです」
「はい」
通話の内容を報告すると、ハヤくんは短く答えた。
「よく○○さんだって分かりましたね」
「聴こえたので、すぐ分かりました」
私の返事に、ハヤくんの表情に疑問符が浮かんだ。
「精神的に病んでる人の電話、分かるんです」
もう、5回くらい○○さんの電話の応対をしていると、もう分かる。私はハヤくんにそう答えた。
「病んでる人の電話ですか」
「うまくは言えませんが、ものすごく変な音が聴こえます」
「変な音…」
「ぼこぼこっ、ざーざー、みたいな変な音です」
ハヤくんには分からないようで、じっと私の目を見ていた。冗談だと思われているのかもしれない。
○○さんは精神疾患の持病がある利用者で、自分の利用のない日も確認の電話をくれる。
「こんな音、聞いたこと、ないですか?」
「ないですよ」
「前の夫の電話も、うつ状態で掛けてくるものは、「全部」こんな音がしました」
「はぁ…」
驚いたように、ハヤくんはこちらを見るのをやめない。
「もしかして、携帯の電話は聴こえないくせに、そんな心霊的な音は聴こえるのかとか、思ってますか?」
「まぁ、ちょっとだけ」
「素直ですね」
私が薄目で睨んだら、ハヤくんはクスッと笑った。
「すごい特技ですね」
「心霊じゃなくて、経験だと思うんですけど」
くるっと鉛筆を回しながら、私が答えた。
「何件もそういう怪しい電話を取ってると、なんとなく分かるんですよ」
「それ、なんなんでしょうね」
「心の中から漏れいでる、心の音ですかね」
話していると、介護職員がパタパタとやってきて、デジタルタイマーのボタンを押した。お風呂のお湯を出して、止めるためのタイマーだ。
「今のは聴こえました?」
「はっ?」
「タイマー、ずっと鳴ってたんですが」
「えーっと…」
私がしどろもどろになっていると、ハヤくんがなお不思議そうに私を見た。
「本当に聴こえないんですね」
「すみません」
謝ってもしょうがない事だが…つい、謝罪の言葉が口を突いて出る。
同じ部屋にはハヤくん以外にも理学療法士が2人いる。部屋の外にはいるが、準備であちこち動き回っている介護士もいる。私がどういう人間か、まだ知られていないから、少しずつ知ってもらわないと、お互いに仕事をしづらいだろう。逆に私も、周りの人がどういう人か、知っておいた方が良いだろう。ドキドキしながら、まずは自分のことを話した。
「小さい頃から耳は遠くて。でも、会話をする分にはこうやって大体聞き取れているので、注意深くしていれば、仕事には問題ありません。面接でも伝えていますし、入職時診断書でも難聴の診断をもらってます」
「そうなんですね」
ハヤくんが、納得して頷いた。
「この前から、さかきさんは、耳が遠いのかなってなんとなく思ってました」
「え、そうなんですか」
「はい、夜、雨が降ってるの、気づいていらっしゃらなかったので」
ああ、と私は声を上げた。そういえば先日、雨の日だった。
外を見たわけでもないのに、ハヤくんが「ものすごい雨ですね」と言ったから、「雨が降ってるんですか?」と答えたら、ひどく不思議そうな表情でこちらを見たのだ。よく耳をそばだてると、確かに轟々と雨が屋根を叩きつける音が響いてきた。
注意して聴くまでもなく、ハヤくんからすれば、なぜこんなに大きな音を聞き逃すのかという気持ちでいっぱいだったのだろう、この時になってようやく腑に落ちた様子だった。
「そういえば、ハヤさんは耳がいいんですね」
「普通だとは思います」
懲りずに私が畳み掛けた。
「目は?コンタクト入れてます?」
「いえ、裸眼です」
「それは羨ましいわ」
メガネをクイっと上げながら、理学療法士の一人が私の代わりに答えた。ずっとハヤくんと私の会話に興味があったのだろう、話の輪に入りたかった様子で、ここで参戦してきた。
「それは健康に産んでくれた、親御さんに感謝しなくちゃね」
「そうですね」
また電話が鳴った。私が電話の応対をしていると、その間に会話は終わったようだった。
「また、○○さんでした」
「はい」
仕事を覚えるのが楽しくて、先輩に教えてもらうのが楽しかった。
困ったことがあれば、すぐに助けてくれる先輩が隣にいる。ありがたい体制だから、この職場に来られて良かったと思っていた。仕事を覚えて、ハヤくんの負担が減れば、相談員2人体制で仕事ができる。そう思っていた。
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