【掌編小説】変幻自在

ギィ……ガガッ……。ギィ……ガガッガッ……。ギィ……ガッ……アアア―――
青空が近くなって、一瞬だけ浮かび上がり、また元の位置まで戻ってきた。視線の先を舞うとんびの旋回とは逆向きに世界が回って、ゆらゆらと覚束なく揺らいでいる。
身体は骨格を引き抜かれたかのようにへたり込んでいて、ぐにゃりと床板に張り付いて、どうにも起き上がれない。外皮に毛が生えているだけの抜け殻と化してしまったかのようで、少しでも動こうとすれば千切れそうなほど熱い激痛が走る。
すぐ前を横切った水鳥の落とした糞が、頬の左側をぼとりとかすめた。
アア……、けがらわシイ……キタナラしい……。
前……、眼が付いている方向を、人は「マエ」と呼ぶのだったか。ヒダリガワ、私の顔が向いているのは、果たして、どちら側なのだろう。
「ん……うう」
ああ、わからない。そう言おうとしたつもりだったが、口が動かない。どちらが上で、どちらが下なのか、それすらも判然としない。
暑い。太陽の光線に、身体が真っ直ぐ射抜かれている。熱で皮膚が焼けただれ、所々が裂けているような感触がする。突き刺すような痛みに、早く起き上がって日陰に逃げ込み、水を補給せねばという焦燥感に駆られる。
眩暈めまいがより酷くなり、鳶の輪郭がどろりと崩れた。ぐわんぐわんと底なしの虚空へ落ちていくような錯覚の中に、ピーヒョロヨロヨロ、という鳴き声が混ざって、眼の奥で滔々と渦を巻く。溶けているやもしれぬ私の脳みそは死を予感すると同時に、ゆりかごの中で寝そべっているような安心感を覚えていた。
ギィ……ガガッガッ……。ギィ……ガッ……アア……。
何かが擦れてきしむような、神経に障る不快な音が絶えず響いている。この音を聞く以前の記憶が頭のどこかに埋まっているはずなのだが、どうにもこうにも掘り起こす気力が湧いてこない。
「―――さん」
耳が声を拾った。こずえを吹き抜ける風のように微かな声だった。
「―――さん、―――さん」
穏やかな調子で、遠くから誰かが呼び掛けている。
聞き覚えのある、女の声だ。でも、誰の声だったかは思い出せない。それに、視界には誰も映らない。死にかけている脳が、腐った耳に幻聴を届けているのだろうか。
「あ、アア、あえあ」
誰だ、と言いたい口を思いどおりに動かせないもどかしさに、私は少し腹を立てた。そして、感情というものがまだ機能していることに驚きもした。
「―――さん、この声がお判りいただけますか」
「……」
私は今すぐにでも頷きたい衝動に駆られたが、すんでのところで思い止まった。それは、肝心の名前が聞き取れなかったからだ。それに、そもそも、私は自分の名前を知らなかった。
「―――さん。聞こえていらっしゃるのでしたら、どうかお返事を」
女は包み込むような声色で柔らかく言う。
聞こえてはいるが、私はじっと黙っていた。
やがて溜息を吐くような風が吹いて、声は聞こえなくなった。傍らに誰かが居るような気配は最初からなかった。やはり、私の制御下から離れた脳が勝手につくり出した幻聴だったのかもしれない。
皮膚がじりじりと焦げていく。時折振りかかる水飛沫が、火傷の痕に沁み入って痛む。揺蕩たゆたう身体にうっすらと触れる空気の微動から推し量るに、どうやら私は全裸のようだ。思いっきり吐いたのか、口周りには粘液がこびりついていて、酸っぱくえたような腐臭が絶えず鼻腔をつつく。
おかしい。これはおかしい。晴れた空が青いことだけが正常だった。一体、何がどうなってしまったというのか。
あらゆる内臓が、酸素欠乏を訴えて激しく脈を打っている。まるで餓死寸前の囚人が独房の厚い鉄扉を必死で叩いているような。それに応えるように、口は喉仏を引きらせながら急いた呼吸を繰り返している。
波の音。潮騒。ああ、ここは―――
「うい、あ」
海か。どうやら私は、船の上で倒れているらしい。
ギィ……ガガッガッ……。波のうねりに揺られる船体が、ひと際大きな音を立てる。
でき得る限りの力を振り絞って、眼球をぐるりぐるりとさせて、私は辺りを見回した。縦横無尽に転がる視界を頭上の先へ押し流していくにつれて、船の壁がだんだんとすぼまっていくのが判った。波の揺れが直に伝わることから、ここは決して大きくはないボートの甲板のようだ。視線を下のほうへ滑らせていくと、隅には手漕ぎ用のかいが一本だけ転がっているが、使われた形跡がないまま乾燥して風化しかけているようである。
周囲には誰もいない。人の話し声も聴こえない。こんなところに私一人だけで、何をしていたというのだろう。起き上がることができれば、海上のどのあたりに浮かんでいるのか一望することもできるというのに。
迫り来る死に追いやられた後悔と未練が、ジュクジュクと、身体の上のほうで粘度と濃度を増していく。
死ぬのか、私は、ここで。まさか、その寸前のところで意識が戻ってしまったとでもいうのか。
ああ、だとしたら最悪だ。何がどうしたのいうのかは知らない。皆目見当もつかないが、どうやら私はこれから死ぬらしい。それなのに、眠りに就くような穏やかな心地では逝かせてもらえないとは。
自分自身が誰であったかも思い出せぬうちに、じりじりと死へ呑み込まれていく。ああ、なんて残酷な最期なのだろう。
乗っていた船が難破したのだろうか。いや、そもそも私は、船乗りではなかったような気がするのだが。旅行か何かで客船に乗ったというほど大きな船ではなさそうだし……、ううむ。意識が途切れる前の最後の記憶を思い出そうとすると、鳶が馬のようにいなないて邪魔をする。
「う、うひゃい」
うるさい。どろどろと近づいたり遠ざかったりする鳶の影に私が吠える。
するとそのとき、鳶がそれを聞いたかのように急落下してきた。
私は恐れおののいた。初めて視界が捉えたときは鳶だったそれは、もはや鳶ではなくなっていた。
船首に留まっているのか、そのあたりにぐるぐると滞空しているのか、それは私の頭上で渦を巻きながら、おおよそこの世の者とは思えないような、おどろおどろしく醜悪な音を発した。
「ギィ……、ギィ……、エええあアア……お……おえエあああアア……ガ……ガガッガッ……ナイ、ない……アエ、どこ、ドコ、ああアアア……アア、あった……、アッタ、アッタアッタアッタ、あはは、アッハハハハハ―――」
鳶の鳴き声、馬のいななき、狼の遠吠え、蝙蝠こうもりの金切り音、鯨の歌、猿の威嚇、女の叫喚……。あと聞こえてくるのは……、混沌に混じって響いているのは、あと、なんだ。生き物の種を越えて無理矢理に合成したような化物の呪詛が、耳の奥に纏わりついて木霊こだまする。
ああ、怖い。おぞましい。こいつは、死そのものだ。今まで死に絶えていったおびただしい生命の魂が、どろどろと混じり合って流動しているのだ。あまりの恐ろしさに私は震え上がって泣き叫び、苦痛を承知でわなわなと身をよじってもだえた。
すると、手が何かに触れた。どっちの手かはわからない。顔が向いているほうとは違う手だ。
硬い。手で探り、その感触を把握する。
円筒形で、縦に長く、直径は指先でまめるほど細い。一方へなぞっていくと、その先端は錐形にすぼまって尖っている。床板に転がしてみると、カラカラ、カラカラ、と軽い音が鳴った。
力を振り絞って振り向こうとすると、うめき声とともに口から何かが飛び散った。朽ちかけている甲板を染めたそれは赤黒く、どろりとねばついていて、すぐに血だと解る。
鉛筆だろうか。そう思い至ったとき、混沌と渦巻く怪異の奇声がぴたりと止んだ。故障したテレビからコンセントがぶつりと抜けたかのような、不穏な静寂が潮騒をも呑み込む。
次の瞬間、渦は青空を侵食するようにぐるぐると肥大しはじめた。
「……イヒ、イヒヒヒヒヒ……ンッ……ククッ……クックックックック―――」
恐ろしい闇の渦は、こらえるようにわらいながら、うねうねと脈動を広げて大きくなっていく。
今度は何が起こるというのか。恐怖に怯えて声も出せずにいると、やがて昼は夜になった。青空の最後の欠片がどす黒く塗り潰されると、暗闇は一度ひとたびどくんと脈打ち、どろどろと濃く深く夜を染め上げた。
私は眼を見開いた。気温が下がり、吹きつける風が涼しくなる。火傷の苦痛が少しばかり引いて、幾分か正気が戻ったようにも思えた。
「ああ、はっはッハッハ……可笑おかしい、おかしいオカシイ、オカシイナァ」
肥大化した闇は人の言葉を吐きながら、感情のたがが外れて壊れたようにげらげらと哂っている。
胸の動悸が速まり、どどっくん、どどっくん、と全身の脈が不規則に痙攣しはじめる。悪寒と恐怖に満たされていた胸の奥底から恥ずかしさと屈辱的な怒りがこみ上げてくるのを感じた。
もう一度だけ血のような胃液のようなものを吐くと、だんだんと酔いが醒めてきた。空は黒一色に染まっているからか、いつしか昼間のようにぐわんぐわんと回転することもなくなっていた。その良好とは言えずとも最悪ではない視界を、私は再三、隅から隅まで舐め回すように見渡した。
視界の上端に三日月が出ている。そう思ったのも束の間、月は満月になった。満月は上弦の半月になり、また鋭い三日月になった。そして闇に紛れて消えたかと思えば、再び現れて満月に戻った。
「ああ、みえる……みえルミエルミエル。これでよく見えるぞ……クックックッ……アハ……ハッハッハッハッハ!」
私が月だと思っていたものは、瞬きをした化物の目玉だった。
「なにあ……おあひい」
わずかに残る正気を頼りに冷静沈着を装い、慎重に顎を動かして訊ねたものの、闇の渦は笑い尽きたように呼吸を荒げて、それでも堪え切れずにまた吹き出す始末である。
会話にならない。完全に情緒が狂ってしまっている。いや、はなから化物相手に言葉が通じるはずなどなかったのだ。改めてそう思い直してようやく気が緩んで楽になった私は、力むあまりいつの間にか強く握りしめていた鉛筆のような棒状の何かに神経を注いだ。
すると、どうしたものか。記憶、いや、これは予感だろうか。懐かしいのに、どうしてだか新鮮な。幾度となく味わってきた気がするのに、同時に、まったくの未体験であるかのような。なんとも摩訶不思議な、今はまだ「心地」としか呼びようのない、そんな何かが煙のように腕を伝い、首を伝い、するすると脳裏に流れ込んでくるではないか。
何か、思い出さなければならない事柄があるはずだった。
闇の渦は丸く大きな目玉を時折ビチビチとしばたたかせながら、相も変わらず女の叫喚とぬえの雄叫びが掛け合わさったような奇怪な声でキィキィと笑っている。その次なる行動を傍目に警戒しつつ、私は何か重要な手掛かりがこのてのひらに握られているのではないかと考えを巡らせた。
粉々としてせた記憶の瓦礫を掻き分けて、ふと手に取ったのは、頻りに黒鉛を紙に擦り付けている音だった。
サササササッ、サササササッ……、シャッシャッ、シャッシャッ……。力加減を誤ればすぐに折れてしまいそうなほど鋭く尖った鉛筆で、私は画用紙に何かを描いている。画家でもないのに物凄く集中していて、隣人への配慮すらも忘れて、取り憑かれたように眼前の風景を写し取っているのだ。
……隣人への配慮?
「ああっ!」
病院。そう、病院だ。ああ、そうだそうだ、思い出した。私は病院のベッドに横たわっていたのであった。
眼前の風景……。
海、そう、海だ。ベッドの窓からは海が見えた。港では手漕ぎの小舟がさざなみに揺られていて、夜になると目玉のような恐ろしい満月が、のっぺりとした闇に茫洋と浮かび上がる。窓を開けると心地良い涼風とともに潮騒が病室に流れ込んできて、そこかしこに響き渡る阿鼻叫喚を優しくなだめて吹き抜けるのだ。
この世で最も地獄に近い場所だった。いや、地獄そのものだった。
痛い。苦しい。もう嫌だ。死にたくない。もう死なせてくれ。重く生々しい死の実感を、その身を介して覚えた大の大人たちが、幼児のようにめそめそとむせび泣いて悲鳴を上げる、入院病棟の大部屋。襲い来る苦痛に誰もが悶え喘ぎ、這い寄る恐怖に戦慄し、凄惨な生に執着しながら安閑とした死を渇望していた。
私も同様だった。絶望的に激しい発作が、内臓を喰い破って縦横無尽に駆け巡っていた。とうの昔に死ぬ準備はできていたはずだが、いざ身体ひとつで迎え撃つとなると、やはり怖いものは怖い。それで、刻一刻と迫る最期の魔の手から逃れるべく、朝も昼も夜も懲りることなく、喜怒哀楽を越えた感情を累々と爆発させていた。
自我を保つためには、何かひとつの単純作業に没頭している必要があった。それで、ただひたすらに手を動かし、この乾いてかすんだまなこを通して見た景色を、頭から離れなくなるまで画用紙に刻み付けていたのである。神経を死から逸らしている限りは、こんな有様であるにもかかわらず、自分はまだ当分死なないのだと思い上がることさえできた。
ああ、そうだった、そうだった。だんだんと思い出してきた。人間特有の意思や理性といったものは、意外と単純な仕組みで回っているのだと知り得たのもこの時だった。こんなに苦しむことになるのならば、最初から生まれてこなきゃよかった、なんて弱音を吐きながらも、夕ご飯にちんまりとした揚げ物が出されただけで、その悲観もすぐに忘れた。
サササササッ、シャッシャッ、シャッシャッ……。気を紛らわそうと躍起になって描いているのは、今まさに私が横たわっているこの小舟だ。
漁港には数多くの漁船や交通船が停泊していた。その中に紛れて、このなんの変哲もない、到底運送や漁業を目的として設計された物とは思えない、小さな無垢材の手漕ぎボートがぽつりと波に揺られていたのに、私は妙な違和感を覚えたわけだ。
生業にしようと思うほど好きなわけではなかった。何かしていないと気が狂ってしまうから、赦しを乞い願う死刑囚さながらの剣幕で絵を描くほかなかったのだ。それでも、私は素人にしてはそれなりの技法を会得していたし、視覚の性質を利用して、静物の配置を理想的な構図に落とし込むセンスにも長けていると自負していた。実際、学生時代に行われた写生大会では何度か佳作に選ばれたこともあったはずで、定期的にスケッチブックを買ってきては渡してくださる男の人も私の絵を大層よく褒めてくれるのである。
それにしても、酷い有様だ。病室の窓から見える風景を描いていたのを思い出したはいいが、さて、それがどうしたというのだ。
描いて妙に気に留まった小舟の上に、私は全裸で倒れたまま腐りかけている。夢にしては痛みや臭いに現実味があり過ぎるようにも思うし、かといって、目の前に広がる光景はあまりにも現実離れし過ぎていた。
「……」
夢と現実が渾然一体となったような、生死の境界線をちょうど跨いでいるかのような、なんとも妙な空間に放り出されてしまった。思考がそう結論付けたとき、闇の渦は今度こそ笑い疲れたとでも言うように呼吸を荒げて落ち着きを取り戻した。
私はすでに恐れも怒りも通り越して、呆れて退屈な気分になっていた。このまま、スウッと意識が遠のいていってくれればどれだけ楽なことか。
闇の渦がカメレオンのように目玉をギョロギョロと回転させて、私の視線を捉えた。笑いは鎮まったが、何やらまだヘラヘラと愉快そうである。
夢ならばいち早く覚めてほしいし、現実なのであればとっとと殺してほしい。中途半端に残った僅かな生命を悪魔にもてあそばれているような気分になり、私は眼の色に冷静な非難の色を滲ませた。
そのときだった。
目玉が、空から降りてきた。太い夜の尾を引いて、蜷局とぐろを解きはじめた蛇さながら、するすると天井から虚空を伝い降りてくるのである。
胸の内にまた警笛が鳴り響き、視界が明滅してきた。それを平静さをもって圧し止めようとすれば、身体中に火花が弾け散る。絶叫すれば余計に肉が切り裂かれるから、ほとばしる電流をたおやかに受け流すように、なんとか私は細く長い息を吐いた。
闇は巨大な九十九折つづらおりを描きながらしなやかに下ってくると、小舟の甲板にひたりと夜の腹を押し付けて、私の身体の周りを夢遊病者のようにのろのろと回りはじめた。
ああ、なんと恐ろしい悪夢か。死に往く者は皆が皆、この宵闇の支配者と対峙して恐ろしい思いをしているとでもいうのか。だとしたらその慣習に倣って、私も洗礼の責苦せめくを受けてやらないこともないが、だとしなかったら絶対に受けてなどやるものか。教師の前で憤然と反抗する不良のような心意気で、とはいえ攻防できる余力は持ち合わせていないため為す術もなく、私はうごめきだした夜の蛇をただ冷ややかに眺めるほかなかった。
「ああ……、あアア……」
かろうじて聞き分けられる女の声が、暗闇のそこかしこで呻いている。
面倒なことになった。死後の世界というものが存在すると仮定して、ここは間違いなく天国ではない場所だろう。仮にその場所を“地獄”と称すとして、それは一人ひとりに割り当てられる、いわば虚無に満たされた五右衛門風呂のような世界なのだろうか。これから先、際限なく膨らんで進んでいく時空の中、誰とも出会うことなくずっと孤独で、この大いなる闇と激しい苦痛が延々とめぐって続くというのならば、ここ以上の地獄はない。
……海。そういえば、私は海にいたはずだが、先ほどから潮騒が聞こえない。この闇の渦が最初に制御の利かない鵺の赤子のような奇声を発して以降、耳がイカれてしまったのだろうか。いや、気づけば波に揺られているような感覚もないし、水飛沫が振りかかることもなくなっている。
どこかへ運ばれたのだろうか。真っ先にそんな疑問が浮かび上がるも、一体何がどこへ運んだというのか。そもそも、はじめのはじめから何が起こっているのか、それすら解っていないため、あらゆる事象が混沌として定かではない。身の回りで解っていることといえば、私が全裸であること、加えて、小舟の甲板に横たわっていて、手に棒状の何かを握りしめているということ、これぐらいのものである。
記憶に障害があるのか、海馬とかいう部位が破損しているのか知らないが、自分の名前を思い出そうにも、どうにも滑らかにいかない。昼間に一瞬だけ聞こえた穏やかな女の呼び掛けも、なんとなく気になる。それに、このうごうごと這い回る夜の蛇の正体も。そもそも、どうして私は病院のベッドに横たわって、絵を描いていたのだろうか。
ああ、なんだか疲れてきたな。目を瞑ったら、そのままスウッと死んでいってくれないかな。そんなことを考えはじめると、夜の蛇から妙な声が聞こえてきた。
「ウウ……ウウウ……」
なんだ、泣いているのか。しくしく、しくしく、しくしく……。鯨の歌に紛れて、キチガイじみた女が今度は静かにすすり泣いている。
一人だけではない。ちらほらと、三、四人ぐらいだろうか。女や子供の泣く声が闇の中で近づいたりと遠ざかったりしている。
やはり、この夜の蛇には、数多の死者が泣く泣く呑み込まれているに違いない。いずれ私も、現世でやり残した有象無象を惜しんで咽び泣き、膨大な未練を抱えたままこの黒大蛇に呑まれるのだろう。
そう思った矢先、夜の蛇は船の床板にするりとめり込んで、私の背後へ回り込んだ。そして、ゆるゆると腹側へ戻ってきて、私の胴体に巻き付きはじめた。蛇に抱かれると、ふわりと浮ついたような感覚が尻のあたりを撫で、無限の虚空へ落ちていくような心地に襲われた。
やがて夜の蛇は私の顔を覆った。視界が漆黒に塗り潰されて、私は眼を閉じた。何も聞こえなくなり、耳鳴りが揺らめいた。口が塞がれて呼吸が阻まれるが、不思議と身体の痙攣は鎮まり、だんだんと楽になっていく。
「―――さん、―――さん?」
あの女の声だ。
「ああ、はぇ!」
今度こそ私は声をあげた。
そして、眼を見開いた。夜の蛇の目玉が、青白い満月になっていて、その光の中に女の顔が霞んで見えるのである。
「―――さん、この声がお判りいただけますか?」
女の顔は二重にも三重にもなりながら、月の光の中にぼんやりと輪郭を浮かび上がらせている。
「はぃ……、はい、わぁいまぅ」
私は必死に反応を返して、すがりつくように握っていた棒を甲板にカツカツと叩きつけた。
「ああ、―――さん、よかった。お身体、起こしますからね」
満月はゆっくりと私の元へ近づいてくると、眩い光で私の全身を包んだ。
柔らかい何かがふわりと背中を持ち上げた。
夜の蛇が呻き声をあげる。網膜の奥までつんざいて焼き尽くすような妖光の眩しさに、思わず私は眼をすがめた。
ギィ……ガガッ……。ギィ……ガガッガッ……。ギィ……ガッ……アアア―――
青空が近くなって、一瞬だけ浮かび上がり、また元の位置まで戻ってきた。


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