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短編小説|異世界の焼き肉屋で経営再建を託された公務員 #6

6.自分らしくいられる日々を

鳥の声、バスのクラクション、かすかなタバコの匂い。
目を開けると北庁舎の建物があった。
自分の体は剪定道具の物置が支えてくれていた。
手や服装を恐る恐る確認する。
路寄幸助がそこにはいた。

・・・全てが戻った。
究極的な安堵のため息を漏らす。
そしてすぐさま立ち上がる。
お尻を払い、周囲を見渡す。
過剰な時間の流れは感じない。
30メートルほど先に喫煙所があるからそこへ向かう。
いや、「さっき来た道」を戻るだけだ。

「ん、なんだお前?もうコーヒー買ってきたのか?」

式山先輩が不思議そうな顔をして僕を見ていた。
手ぶらのまま、アハハと笑い返していた僕が超絶不気味に見えたはずだけど。

それから1週間、あの常夜界の話をしようとは思わなかった。話相手なんていないし、SNSに投稿しても単なる妄想にしか思われないだろう。そもそもすぐにいつも通りの忙しい毎日を送っていたから、そんな回想をする暇がなかっただけかもしれない。
幸いにして自分の身体には何も異常がなかった。あの時の式山さんのタバコの吸い具合からみても、どうやら数分くらいの出来事だったっぽい。
だから、夢を見ていたと説明するのが最も適切ではないかと思っている。

しかし、夢にしてはとても濃厚な経験ができた。あの焼肉店の経営を持ち直したことは、この現実世界においても多大なる自信を与えてくれている。

1つ目に、人の話を聞くことに留まらず自分の意見を適切に言えるようになっていた。
あの頑固な社長さんの愚痴を延々と聞いている時にも、後継者(というか話し相手)を探すことを提案したところ、気付けば後継者を擁立するめどが立ち、鉄工所の事業を継続できる希望が見えてきた。
式山さんからも急に人が変わったようだと、最近頻繁にいじられている。

2つ目に、妻との養育費の協議では、冷静に収支を把握することができた。決して難しい計算は無いのだが感情が先行する場なので話が難しくなっていた。そこを丁寧に切り分けて決断した僕の変わり様を見た妻が、少し考えを改めてくれているらしい。ぬか喜びは出来ないが歩み寄る雰囲気が漂ってきた。

3つ目は、物怖じしないタフさが身についた。式山さんですら、あの世界の怪物たちとは比較にならないほど大人しい。

「おい、路寄、明日の定例会の準備はできてんのか?」
「昨日議題を教えてもらって、もう作ってあるって言ったじゃないですか」
「ん?そうだっけか、わりぃ・・へへへ」

こんな、少しだけ好転した日常を取り戻していた。
魔王キヨリが言った「過酷な世界」の歩き方を、どうやら僕は会得しているようだ。
そして、オルクさんの最後の言葉は今も忘れずにいる。

「自分らしくいられる日々」

たしかに当初は儲かってないという事実から、つい焼肉店を繁盛させることに突き進んでしまった。オルクさんも最初は楽しくて仕方なかったと思う。だけど、自分の生活が潤う範囲内で毎日を過ごしたかったのでは、と今になって思う。

こちらが良いと思った事を提案して実行することは、時として引くに引けない大きなお世話になる。
困っている人が言った事を手伝ってあげる・・・くらいで丁度いいのだろう。市民に寄り添うとは、そういう事なんだ。

オルクさんも僕も、今は自分らしくいられる日々を過ごすことができてお互いに幸せ・・・だと信じたい。


後日、あの剪定用具の物置を見に行ったが青いポリバケツはなかった。
もちろん、白い猫も。
ホッとした気持ちでいつものように帰宅する。
いつもより軽い、足取りで。

この作品はフィクションです。
実在の人物、地名、団体、作品等とは一切関係がありません。

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