記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

240521 映画『違国日記』特別試写会

anemoさんのご招待キャンペーンに当選して、特別試写会に行ってきました。

原作最終話の掲載と同時に発表されてからずっと楽しみにしていた映画だったけど、まさか試写会に参加できるとは思わなかったので、毎日本当にわくわくしていたし、なんか緊張もした。(笑)

以下、原作と比較して脚本がどうだったか、どんな風に素敵だったかを箇条書きにしていくので、作品のネタバレを含みます。初見を楽しみにしている方はご注意ください!

書き残したいこと、もう一度鑑賞して確認したいことがたくさんあって、一つの綺麗な文章にはまとめられないので、箇条書きで書きます!自分の備忘録として書くだけだけど、誰かにとって印象に残るような感想が一つでもあれば嬉しいです。

・高木正勝さんの音楽がいい〜〜
原作者・ヤマシタトモコさんの作業用プレイリストの1曲目が、高木正勝さんの『girls』で、今回の映画音楽を担当されているのも高木さん。ピアノの音色が作品にマッチしていて、物語が大きく動くとき、朝の中で静かに、でも確実に大きな変化が起きたときに入るピアノ曲がとても良かったです。

・朝の校内ライブのシーン
音楽関連だと、このシーンは本当に良かったです。高校で軽音学部に入った朝が「エコー」をキーワードに作詞していた曲を、『あさのうた』として形になったのを堪能できるのは映画ならでは。緊張でガチガチになってマイクを両手で握りしめる朝も、「私軽音やめるんだ。音楽好きでいたいからさ」と(朝にとっては)衝撃発言をする三森ちゃん(軽音の同期)もとても良かった。朝の親友・えみりが動画を撮影しているんだけど、撮りながらときどき口ずさんでいたのも印象的だった。軽音のオリジナル曲を覚えちゃうくらい、えみりが朝の自主練に付き合ったともとれるし、えみり役の小宮山莉渚さんが『あさのうた』を聴き込みすぎて思わず口が動いてしまった、ともとれました。アフタートークでこの曲が大好きになったと話していた小宮山さんめっっっちゃかわいかった!
高校生のときの、すごく短い時間が宝物になるような経験が、画面いっぱいに表現されていたのがとても良かった。自分の高校生活やこれからの生活を思ったりもしました。こんな瞬間が過去にあったり、これからも生まれたりするなら、生きるのがまだまだ楽しみだなと思った。思い出すと泣きそうだよ〜〜

・朝のキャラクター
朝がまだ15,6歳で、怒りや悲しみ、悔しさ、やるせなさ、寂しさといった感情はたしかにここにあるのに、「それを言い表す言葉がない」(原作より)という感じ、幼いがゆえに言葉が浮かばなくて苛立っている感じがすごく伝わってきた。
言葉が浮かばなくて、言い表すことができなくて、でも気持ちだけはたしかにあるからもうどうしようもなくて、朝は一人でいろんなところを彷徨う。中学の卒業式の日、「普通で卒業式に出たかったのに」それが叶わなくなって、えみりに「大嫌い」と告げて校舎を飛び出して、槙生の家への帰り道が分からなくなる。街で「朝」と呼ぶ母・実里の声を聞いた気がして横断歩道を渡る。実里の日記を手に入れたもののどうしたら良いかわからなくなって、定期テストを2日間さぼって海沿いを歩く。
「ぽつーん」とした砂漠を、朝は独りで、歩いて、歩いて、歩く。

言葉、という意味では、「うざ」「うっさ」「わかんない」「ばーか」などの語彙が朝らしくてとてもよかった。帰り道が思い出せなくなって帰りが遅くなった日、槙生に軽く叱られての第一声が「うざ」だったので、見ていて思わず「おおっ」とか言ってしまった。原作よりストレートだったのでびっくりしたけどたしかに言いかねない!脚本おもしろかった〜

・朝×槙生、朝×醍醐の会話のキャッチボール
朝役の早瀬憩さんが、撮影当時15歳で朝と同い年だったということで、等身大のお芝居を意識されていたのかなと思うのだけど、台詞の出し方がとっても自然だった。自然なので、声の高さや流れがとても豊かでおもしろかったんだけど、槙生役の新垣結衣さん、醍醐役の夏帆さんが、朝がどう台詞を発するかによって自分の受けの台詞の言い方を変えて合わせていたのがよくわかって、聞いていてとても心地よかった。新垣さんも夏帆さんもすごく耳の良い方なのかなと思った。特に公園で朝が「軽音のボーカル立候補できなかった。キャラじゃないかと思って」と相談する場面の3人の会話が印象的だった。

・キャスティング
朝、槙生は原作のビジュアルと比較的近い方だなと思ったけど、ほとんどの役でビジュアルの再現は見られなくて、でもそれによってより最適なキャスティングになっていると感じた。この項目はわざわざ書かなくても良いんだけど、演劇を見ていると、特に2.5次元や新作歌舞伎で、ビジュアルが原作と近いかという点は作品のクオリティを図る一つの指標になっていると感じるので、そうではない場合を再確認できたという備忘のために書いておきます!
特に槙生、醍醐、笠町役の方が、外見以上にその役らしさを表現されていて印象に残った。えみりはじめ、高校生組もみんなよかった!!

・朝とえみりの体育館のシーン
えみりが朝にカミングアウトした後、二人が「なりたい大人像」を語り合う場面、二人以外誰もいない体育館が舞台になっていたのがまず驚きだけど、すごく良いシーンになってた!
最初は体育館に座り込んで向き合って話していた二人が、立ち上がってくるくる回りながら喋るのが面白かった。(監督からの指定ではなくて、二人が自然とたどり着いた表現と知ってびっくり)
私には最終巻の「衛星」を想起させるシーンでした。

なんか衛星みたいに誰かを見てること
(中略)
衝突しないための適切な距離というやつが
たとえばおれときみではおれが想定したより遠かったけど
きみと朝さんではきみが思うよりもっと
近いかもしれないだろ
軌道を逸れて離れてしまうほうが衝突よりも怖いんじゃないか

11巻・第51話

「朝とは恋バナしないから」「もうこの話終わり」というえみりの言葉で、二人が分かち合えなかった話題があって、このときは少し遠ざかるのが朝とえみりの「適切な距離」だった。
でも、えみりが朝に自分が秘密にしていたことを打ち明けて、その後で近づいたり離れたりしながらくるくる体育館を踊るように回るシーンは、朝とえみりという「衛星」同士の今後を思わせた。きっとこの二人は並走はしないまでも、この先も軌道を逸れることはない。

・朝と槙生の関係性
原作よりも早いスピードで、原作よりもさらに親しげな関係性に見えた。原作でも二人は「ただの親戚」を超えた関係になっていくけれど、あまり表出はしていない印象。朝が槙生という「違う国の人間」と関わったことを日記に書く、という行為が唯一(かつ最大の)、この二人の特別な関係性を示す要素だが、それは朝が未来の視点から振り返ったものなので、当時の本人たちからの明確かつ具体的な言葉では表れない。
映画では、槙生と笠町の関係性(また付き合ったりしないの?結婚しないの?今は友達?それとも親友?)について朝が問う場面で、槙生が朝に「じゃあ私たちは?」と逆に問いかける場面が印象的。「親戚…?」と返す朝に、槙生は「それだけ?」と返して、横に座る朝の肩に腕を回して抱き寄せる。朝、槙生、笠町がソファにむぎゅむぎゅになって座る場面は原作でも特に好きなシーンの一つだったけど、映画でこういう流れになるとは思わなかったので、記憶に残っている。

朝と槙生の関係性で言うと、槙生の部屋が最初めちゃくちゃ荒れているのが、朝が来てから片付く、というのがいいなと思った。原作より部屋が汚くなっていてセットがめっちゃ凝っていて感動した。槙生の「トイレはあっち、ソファとテレビと冷蔵庫と、あと地球儀とか…がある…」というめちゃくちゃな部屋案内も面白かった。

朝が原作よりも空気の読める子で、槙生は原作よりも人間に疲弊していない人だった。ので、二人の距離が縮まるのは比較的早い。二人とも原作以上に社交的。槙生の眉間に皺が寄りっぱなしなのは原作の槙生とかなり近くて好きだった。

・実里の不在
先に、朝と槙生が社交的で距離が縮まりやすかった、みたいなことを書いたが、これは実里が「死者」に徹していたことが大きいと思う。原作では実里は「ついこの前までこの世に生きていた人」という印象が自分的には強かった。映画でも、朝と槙生が実里の幻覚を見ていたり、声が脳内で響いたり、昔言われたことに縛られたりはしていたけれど、あくまでも生者=朝と槙生の視点が優先されていたと思う。だから仲良くなるのが早いように感じたのかな(単純に2時間という映画の上映時間もある)
原作全11巻を読む中では、実里の生っぽさと言ったら良いのか、実里が生きた人間であったこと、実里にも思いや葛藤、心情や考え方の変化があったことがすごく重く伝わってくる印象。
どちらが良い・悪いということは全くなくて単純に相違点として記録。槙生の「お母さんはもういないじゃん(=亡くなっている母がどう考えるかを想像して悩む朝に対する言葉)」、「朝の両親はもういる(=ので私は親にはなり得ない)」という、相反するようでそうではない二つの台詞もあわせて書いておく。

・千代の挫折
最後の項目が一番薄くて恐縮だが、千代が挫折する原因が「医大受験の不正発覚」ではなく「留学プログラムの不採用」であったのは何でなんだろう?後者がだめだった、という意味ではなく、前者が映画で採用されなかった理由が気になった。(実際にあった事件だから…?違うか…)

長々書いた結果、本当にただの備忘録になってしまった…。
最後にすごく個人的なことを。

・個人的な感想
今まで漫画の世界だった『違国日記』が現実に飛び出してきた、というよりは、本当に私たちの身近にある物語なのだということを確認できて、幸せな時間だった。
『違国日記』の登場人物たちみたいになりたい、今からだってもっともっと豊かな自分になりたい、他人を思える自分になりたい、ただ幸せに生きてみたい、と思って、
やりたいことのすべては叶わなくても、少しずつ折り合って妥協して諦めて負けて、そのおかげできっと私は私のままでいられるんじゃないかと思った。
『違国日記』をフィクションだと決めつけて自分の醜さに対してこれが現実だと言ってしまうことは、すごく乱暴なことだと感じている。
もっとやわらかく、あたたかく、まっすぐでいたい。それが本当に難しいことだということは、20年と少しの人生を通して自分でよくわかっている。それでも、こうして言葉や作品を通して自分と対話するときだけでも、それを誰かに読んでもらうときだけでも、私はとびきり誠実でありたい。

これからの人生を想像すると怖くていつもどこでも泣いてしまいそうになる。消えてしまいそうになる。「でも『それでも』『それでも』『それでも』と」この作品を読むたびに、見るたびに思う。それでも、私は。それでも、私たちは。

また来月、劇場で朝たちに会うのがとても楽しみ。一人でも誰かとでも、見るたびにいろいろな思いが生まれそうな映画でした。こんな末尾まで記事を読んでくれたあなた、見に行くとき誘ってくれたら嬉しいです!

読んでくださりありがとうございました〜


あの日、あの人は群をはぐれた狼のような目で
私の天涯孤独の運命を退けた。

第1巻・第11巻



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?