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甘えた構造

 就活の学生たちが面接の際に口々に言う、寄り添った仕事をしたいという真意を長らく計りかねていた。暗記した就活マニュアル通りのセリフを言っているだけとは感じられないその言葉の意味するところが私には良く分からないのだった。

 先日、こんなことがあった。
 自宅への帰路、路線バスの二人掛けの席で隣り合った会社員風の若い男性のことだ。とあるバス停に停車した際に窓側に座った彼は何だかモゾモゾしていた。降りるのかと思って私は席を立とうか迷ったが、だからといって彼は通路側に座る私を見やるでも無く、降りますと言うわけでもない。降りそうな動きをするでも無く、イヤホンをして前を見たまま座って降りていく人たちを見ていた。しかし降りるのではないのかと思った矢先に、半ば私を押し退けるように降りて行った。
 その後ろ姿を見た時に思ったのだ。通路側に座っていた私は彼に寄り添った行動が出来ていないと彼に指摘されるのだろうなと。

 この時思いついたのが、寄り添いたいと言う人の真意は、自分が誰かに寄り添われることを強く欲していることの裏返しなのではないだろうかということだった。日常で寄り添われる経験が少ないからこそ、寄り添うことが重要だと思うのではないか。あるいは、寄り添われることが当たり前だから、その当たり前を自分もやらなければいけないと思っているのか。
 私の思い込みかも知れないが、最近多く使われている寄り添うという言葉には、自分がどうしたいと考えているのかを伝えなくても分かってもらえて、適切なサポートを受けられるという気持ちが込められているように感じる。そこに、寄り添う側の優しさよりも、寄り添われる側の甘えのようなものを感じてしまうのだ。

 口に出して言わなくても分かり合える、というのは日本の専売特許だった。そんな考え方は昭和の時代を最後に絶滅したかと思っていたが、形を変えて脈々と受け継がれていたということか。
「私たち、分かり合えるよね、だって同じ日本人だもの。」とでも思っているのか。いや、そうではないだろう。分かってもらえることを前提にしてしか考えることが出来なくなっている。それでいて、もし自分が分からないようなことがあれば、当然分かるまで説明してもらえると思い込んでいる。

 丁寧で分かり易い説明を心掛ける人が間違いなく増えたのは、分かってもらえない可能性が前提になっていなければ説明がつかない。しかし、どんな人に対しても分かっていただく為に言葉を尽くして説明するのがスタンダードだとしたら、最終的には分かってもらえるという暗黙の前提があるはずだ。私が理解出来ないとしたら、その唯一の理由は説明が悪いからだという傲慢さが背後にある。

 当たり前だが、全てのことを全ての人が理解することは出来ない。携帯電話の難しい契約書に捺印した後で、分かりにくいし説明が悪いと文句を言うのは順序が違う。理解することを自ら諦めた後で、説明が悪いのだからもっと良く分かるように説明しろと強く迫るのはアンバランスだ。それでも寄り添うべきと言うなら、それはそれで素晴らしい精神だが、そうした社会は恐らく社会は長くは保たない。

 甘える相手がいるうちは甘え尽くすのも作戦としてはありなのだろうが、誰かの迷惑を蔑ろにしていることを忘れてはならない。それは社会的コスト増として結局自分に跳ね返って来る。因果応報と言うではないか。

おわり
 

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