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言葉なくして心はあるのだろうか

 人にとって言葉は切っても切り離せない関係にある。何かを考えるときも、何かを表現するときも、何かを伝えるときも、言葉を使う。
 採用面接で自ら創った造形物の披露が通用するのは、限られた分野だけだ。映像作品と言われる映画ですら言葉はある。

 言葉は伝達の道具だから、意味が限定される。誰かが空と言った時にそれが海のことだと思っていたら話が通じない。だから空は上に見えるあの空のことであって、それ以外では無い。でも、見上げるその人によって空は違って見える。その違いは空という言葉には込められない。

 現実を言葉に置き換えた時にはその一部分を切り取るかたちになる。思っていることの全てを言葉に置き換えることは出来ない。受け止める側の解釈もある。それでも私たちが何となく分かりあえている気がするのは信心に近い。
 だから、付き合ってください、というような言葉による確認のみに頼り切るのは危ない。それ以外の手段で確かめるすべも探しておいた方が良い。

 ところで、心は言葉の作用だと思っている。
 感覚や感情があっても、それを言葉にしてみないことには心の動きにはならない。たとえ口にしなくとも頭の中には言葉が漂っていると思う。その言葉を全てシャットダウンしてみたとしよう。どうなるだろうか。そこに心はあるだろうか。
 心のようなものはあったとしても、かたちにならないそれは心と呼ぶに値するものにはならないのではないか。
 そう考えれば、思考以外に心にも言葉が欠かせないということになる。

 心が言葉によって初めて実体を持つのだとすれば、犬や猫には心がないことになる。いやぁ、それは信じたくない。少なくとも我が飼い猫には心があって欲しい。生きるために飼い主が利用されているだけとは思いたくない。心を通わせているつもりで、癒やされる〜なんて思っているのに、そうでないなんて信じたくはない。

 だから、言葉の存在とは関係なく心はあることにいないと都合が悪い。

 歳を取ると言葉そのものが出てこなくなる。頭の中にも適切な言葉が浮かばない。仕舞には、何を言うつもりだったかも忘れてしまう。
 これはきっと、死に向けて心を失っていく過程の一部なのだろう。

おわり

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