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二項対立

大学への進学を前提とした場合、高校に入ると、どこかのタイミングで選択を迫られるようになる。

それは、文系か理系かという選択だ。

【大学の学部】文系・理系の主要15学部をまとめて紹介!』によると、大学の学部で分けるとすれば、次のようになる。
文系というのは、法学部、経済学部、文学部、教育学部、外国語学部など。
理系は、理学部、工学部、農学部、医学部、薬学部など。

同じ文系でも、人文科学系統と社会科学系統に分かれるらしい。
理系は自然科学系統に分類されるようだ。
このような学部の系統分けは、単なる分類なのでさして重要な意味があるとは思わないが、文系か理系かという選択は大学進学を考える学生にとってその後の人生をも左右するほど非常に大きな問題となっている。

文系と理系に分けて考えるのは、あくまでも大学受験対策の一環としてだ。試験科目の点が取れるようにするためには、学習科目や内容を厳選して学ぶことが必要で、逆に受験に出ない科目は高校で学ぶ科目に組み入れないで済むようにするためとも言える。

しかし、一度文系か理系に区分されると、受験対策という意味以上に、人間の素質というか形質というか、もっと言えば人間性として分類されているように錯覚してしまい、それがその後の人生にずっと付きまとう傾向がある。人間の属性のひとつとして、文系か理系かという項目があるかのように感じてしまう。
少なくともここ日本では。

大学での研究活動として考えた場合、学部や学科という区部はあっても、文系か理系かという区分は無い。繰り返すが文系か理系かというのは大学受験に向けて学習する受験科目を選択する時の分類であって、人間が文系的か理系的の何れかに分類されるのではない。
つまり、「文系」と「理系」は本来対立した概念ではない。

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本来は対立した概念では無いものも、並べて表記することによって対立概念であるかのように見える。
例えば感染拡大防止か経済活動のどちらを優先すべきかといった議論。
これらはそれぞれ別の観点の話であって、どちらを優先するか比較して考えることではない。強いて言えば、どちらも人の命や生活を救うという点で共通しており、どちらも重要な事柄だ。天秤にかけてどちらかに重きを置くというものではない。
しかしながら、感染拡大防止か経済活動か、と問われると、まるで対立概念であるかのように錯覚してしまう。どちらかを選ばなければならないような気になってしまう。さらには、それぞれの論者が相手を攻撃するような発言をするようにまでなってしまう。

それだけ二項対立には強い吸引力がある。
みんな、必要の無い議論に引き込まれてしまう。

もしこういった<二項対立>が意図的に掲げられているとするならば、それを言い出した張本人には何か別の作為があると考えても良いのかもしれない。
デコイのように<二項対立>を置き去ることによって、相手から目を逸らす効果は抜群だからだ。
あるいは、敢えて議論に巻き込みたいという理由の場合もある。注目させることが目当てで<二項対立>を立ち上げるという、撒き餌のような使い方だ。

デコイか撒き餌か。
どちらかは分からない。

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対立していない概念を対立させるという偽の二項対立(上では<二項対立>と表記した)以外に、もともとは一つであった概念を2つに分けて考えることによって造り出される二項対立もある。これはある意味本物の二項対立だ。
例えば、男と女や表と裏。

しかし、2つに分けて考えてみるところまでは良いが、2つにしか分けられないであるとか、もともと2つだったと誤解し始めると話がややこしくなる。
例えば、人間は全て男か女のどちらかです、といった定義付けをした途端に違和感を持つ人が出てくる。どちらかに分類されることに抵抗感を持つ人が出てくる。

生物学において、生殖器の構造に基づいて、この器官を持つものを男、持たないものを女と呼ぶというだけであれば影響は少ないが、そういった個別の定義なくして、漠然と男だ女だと言い出すと話が広がり過ぎてしまう。
そうなれば結局、対立した概念ないものを並べて造られた<二項対立>と同じ構造になってしまう。
つまり、医学や生物学ではない領域で一般的に言われる男か女かという話は、二項対立ではなく、<二項対立>だ。
実際には全てを男か女かのどちらかに決めつけることは出来ない。

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2つの概念を提示して対立させる<二項対立>に人間が陥り易いのは、比べることでしか認識出来ない性質を持つからでもある。
2つを比べてみて違いを確認することで人間は物事を理解しようとする面がある。分けて考えることで理解しようとする。それを一般的に分析という。

しかし実際の人間や現実の世界は、簡単に二分出来るほど単純ではない。
2つの間には分断の溝ではなくグラデーションが広がっている。
黒から白への階段は無限の諧調に彩られている。
その豊かな現実世界をそのままに把握し捉えることは難しいので、取り敢えず2つに分けて考えてみよう、いくつかに分類して考えてみようという方法論であったものが、いつしか世界は2つにしか分けられないという極端な見方にならないよう、我々は常に注意を払っておかなければならない。

戦隊ヒーローもので描かれるような正義の味方と悪者という構図は確かに分かり易いが、世界には敵か味方しかいないのではない。
善か悪かしかないのではない。

グラデーションの中の中間色に目を向け、バリエーションを認め、ありのままの世界を受け入れることからダイバーシティへの理解は広がっていく。

おわり

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