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投了

 囲碁や将棋では勝ち目がなくなった時に勝負を諦める事が出来る。それを投了という。
 棋士はただ、負けましたと小さく呟いて頭を下げる。戦国の世なら首をはねられて一巻の終わりというシーンだろう。
 右にも左にも、前にも後ろにも、どう足掻いたところで詰んでいる状態が分かれば、投了する他ない。

 人生でも同じだ。
 人生詰んだと気付いたときに投了する人がいる。人はそれを自殺と言う。決して自殺を肯定したい訳では無いが、どう足掻いても絶望しかなければ投了したくなるというのは分からないでもない。むしろ、よく分かる。

 早すぎる決断は良くない。自ら死を選ぶのは言語道断。そう言うのは絶望を知らないからだ。詰んだことがないから言えることだ。とっくに勝負がついているのに終わるまで投了を認めないルールだとしたら、棋士はメンタルが持たないだろう。勝負を投げることで棋士は救われてもいる。

 人の人生で勝負を投げる事が許されないのは極めて道徳的に正しいことだが、当事者にとっては酷なことだ。生地獄だ。
 そう考えれば、全ての自殺が否定されるものではないだろう。あくまで偏った理屈の上だが。

 自らの意志で命を絶つ尊厳死という考え方がある。日本では認められていないが、海外では認められている国がある。この場合、不治の病気を患った人などの厳しい条件が設けられているものの、自ら死を選択した人を受け入れ、リスペクトの下で看取る事になる。考えてみれば残される人にとっては壮絶な体験だろう。

 翻って、それは自殺にも当てはまる。
 たとえどんな事情があろうとも、残された人にとっては受け容れがたく激烈な体験になる。理解を越えた出来事であろうし、尊厳を見失うほどだろう。
 そう考えればやはり、人生に投了を認めるのは是とは言い難いのもわかる。

 それであれば、せめて詰みに気付いた人に寄り添って欲しいと願いたい。
 絶望の中で生きる事を強いられる苦しみがあることを理解して欲しい。
 そして出来得れば、光を与えて欲しい。
 希望の光を。
 そうなれば救われる人もいるかも知れない。

おわり

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