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価値観からの脱皮は案外難しい

 整体院で、全身が凝り固まっていると言われた。
 自分自身に自覚が全く無かったため、驚きとともに、気づいていない自分の症状の根深さにゾッとした。
 相変わらず自覚のないまま通い続けていたら、姿勢が良くなってきたとは言われるようになった。
 長年の蓄積で凝り固まった身体がそんなに直ぐに和らぐことはなかろうから、気長に取り組む姿勢で臨んでいる。

 知らずしらず身に纏っている価値観でいつの間にか身動きが取りにくくなっているのに気づかないことがある。
 例えば、朝起きること、毎日通勤すること、毎日3食摂ること、夜寝ること。何でもない一日の流れの一部で、至って普通のこと。当たり前に過ぎていく日常の一コマ。
 何の価値観も入り込めそうにないそんな一コマ一コマにも、全てを投げ捨てる勇気が持てるのであれば、価値観を疑う余地が出てくる。

 起きるのは朝でなければならないの? 毎日会社に行かなければならないの? 1日一食ではだめなの? 夜は寝なければならないの? etc.
 もちろん、そう、働かざる者食うべからずではあります。ただ、今現在私が選択して続けているこの生活が、本当に私が望む生活なのか。それ以外の選択肢を選ぶ余地がないのか。
 本当に仕方がないことなのか。

 科学的には朝起きて夜寝るのが人間という生き物にとって一番いいという研究結果があるのかもしれないし、3食摂るのが医学的な正解なのかもしれないが、そのことと、私が何をどう実行するかとは別だ。現在の科学や常識で正しいとされていることに基づいて行動することは、私にとっての正解とは限らない。

 自分勝手なことをすれば和を乱すことになり社会の混乱を招くという考えもあろう。何も和を乱す行動をすべきと言っている訳ではない。結果論であっても人や社会に迷惑を掛ける行為は慎むべきだ。ただ、どんな行為だと迷惑がかかるのかの線引の基準は難しいし、社会の為に自分を抑圧することを、どの程度なら許容すべきなのかも容易に決められることではない。

 知らないうちに囚われている価値観に気づくことがまず重要で、その次にその価値観を自分がどう感じどこまで許容し、あるいは拒否するのかといったことを自分ごととして処理することが極めて大切だ。

 しかしそれは、自分に起こる出来事の全てを自分の責任において受け入れる事に他ならず、人や社会や自分以外の何かのせいにすることを排除しなければならないという事でもある。

 必ずしも今いる価値観から逸脱する行動を取るのではなく、見えていない価値観の殻を破って脱皮し、素の自分として社会と向き合うことで、自由になれる。
 自由になることは、全てが自分のせいになることで、人のせいには出来なくなること。
 あなたのせい、会社のせい、学校のせい、社会のせい、政治のせい。何かのせいに出来ることで楽になれることを選ぶか、自分のせいにして自由になるか。

 いま決めろと言われると、凝り固まった私には案外難しい。

おわり


 

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