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数の不思議

 もしかすると一番身近で、それでいて一番分からないものかも知れない。
 それがあるお陰で体重を量れたり、距離を測れたりするばかりか、価値を計ることまで出来る。あらゆるものの物差しとして振る舞って比較することを容易にしてくれる。

 他方、それがあるお陰であらゆることに順位が付けられて、良し悪しの区分けがされ、平等性が損なわれる。もっと上を目指さなければ駄目なんて言われてしまう。

 それは、数のことだ。

 そう、それには何か客観性が宿っていて、ものごとを分かりやすくしてくれると思わせる、そんな魔法がかけられている。かけたのも、かけられたのも私たち自身だが。

 ひとつふたつと言うのと、1、2と言うのは本質的に意味合いが違う。その抽象度が違う。お札は一枚二枚と数えるが、千円、二千円と言う時に私たちの頭に浮かぶのは数そのものよりもそれで何が食べられるかの方だろう。
 ものを数えることと、数そのものは似ていて非なるものなのだ。

 日本語では、数える際にそれ専用の言葉を纏う。一本二本、一匹二匹、一頭二頭、一羽二羽、一棹二棹、一帖二帖、一間二間、一歩二歩、一篇二篇。数える対象に紐づいた数え言葉は、数えられる側を具体的に思い起こさせる。人に対して一匹なんて言うと怒られる。もちろん、ブタとか言っても。

 日本語の数える単位で唯一抽象的なのが、「円」ではないだろうか。壱万円と聞くとあのお札が思い浮かぶだろうか。私は壱万円札のデザインを空で言える自信は全く無い。まして壱億円など見たこともない(もちろん壱千万円もだが)。毎日「円」を見聞きして悩まされているのに、具体的な姿が何も浮かばない。それはきっと、円はいつも何かの身代わりになることを運命づけられた儚い存在だからではないか。財布の中の円もちょっと気を抜けばいつの間にかにいなくなっているじゃないか。

 数えることから離れて存在する「数」そのものは、具体性が無いが故に捉えるのが難しい。割り算が難しく感じたり、分数の掛け算が意味不明に感じるのは、実感が湧きにくいからだし、整数と整数の間にある小数は何となく分かるにしても、有理数だ無理数だ、はたまた虚数だなんて言われれば、それこそ雲をつかむような話。現実離れもいいところと思うだろう。
 だいたいが、猫が1.35匹なんてことはないし、お会計が534.8392・・・円です、なんてことも無い。足し算と少しの掛け算が分かれば事足りるのである。

 しかし奇妙なことに、掛け算どころか超最先端の数学が無ければ現代の私たちの便利な社会は維持出来ない。スマホだってカーナビだって、ネットだって使えない。難しい数学なんて一部の頭のいい人だけが分かってればいいじゃないかと思うかも知れないが、少しの人しか知らない技術の値段はべらぼうに上がることになるから、ある程度多くの人が理解するようでなきゃ困るのである。

 使っていても普段は全く触れることが無い「数」の不思議。その世界にどっぷり浸かりながらも知らずに生きていられるのは幸か不幸か。
 最近ではお会計の際にもスマホでピッとやるだけだから、お金すらますます遠い存在になるのだろうけど。

おわり

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