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noteの記事は書き捨て

 こんなことを書くと真剣にnoteに向き合って書いている方には本当に失礼に当たるのだろうなと思いながらも、私にはnoteの記事は書き捨てであることに違いない。

 だからといって、適当に書いていると言う事でもなく、ある意味真面目に書いてはいるのだが、いわゆるプロの書き手のように、誰かの為に書いているのでは無い。言うならば自分の為だ。
 自分の為の活動が社会に取ってなんの役にも立たないことは自明だ。
 言ってみればただのマスターベーションで、ただの自己満足だ。良く言えば内省的活動だ。それもごく軽いレベルの。
 ニュアンスで言えば、日記の様なものということ。

 活動やその目的のベクトルが外に向かって放たれているとき、つまり、誰かに向けて行われているとき、その活動は社会性を帯びる。
 誰かに影響を与え、誰かを動かし、周囲に何らかの変化の痕跡を残す。
 けれども内向きの活動は自分の中での変化が起きること以外に何の役にも立たないものだ。

 ところが内省的日記だとしても、ネットを通じて他の人が触れることのできるこのnoteの場合は少し事情が違ってくる。
 私のように、noteをコミュニケーションツールとしてではなく記録ツールとして利用していたとしても、公開している以上は誰かが見ることになる。
 見たことによってその人に何らかの変化が起きる。変化の量は極めて小さいものだろうが、変化は起きる。
 つまり私の意図に反して誰かに影響を与えてしまう。
 呟いた独り言に誰かが反応して相槌を打ってしまうかのように。

 この緩やかで曖昧な相互作用が起こり得るnoteというプラットフォームが私にとっての魅力でもある。
 強い影響を与えるのでは無く、地味に染みが広がっていくようなinfluence。
 そこがいい。

 だからnoteはいわゆるSNSとは違う。
 少なくとも私にとってはSocial Network Serviceではなく、強いて言えばSMNS、つまりSelf Meditative Network Service。自己瞑想的ネットワークサービス。瞑想というより迷走かも知れないが。

  思えば、私にとってギターもそうだ。
 私は時にギターを弾いたりするが、それは人を楽しませるものではなく、人と音楽を分かち合うためのものではなく、自己と向き合うためのもの。
 音楽って本当は人と一緒に楽しむためのものだよな、と気づいたのは最近だ。
 知らなかった訳ではない。気付いていなかったのだ。
 人が聴いている中で皆と一緒に音楽を奏でる経験やそれによる感動の経験はあったが、私の中には聴いている人と一緒に楽しむという要素は無かった。演奏者側だけで一体感を得るに過ぎなかった。
 きっとそんなのは音楽ではなかったのだ。

 ともあれ、こんな私のnoteも多くの人が読んで下さり、❤を押して頂けることもある。
 正直言えば、❤は嬉しい。
 なぜ❤を押してくれたのか、その理由までは推して知るしかないが、共感、同情、応援、頷き、励まし、など、読んだ方の心が動いたことには違いない。
 別に人の心を動かしたい訳ではない。
 でも、動いた心の痕跡を❤として残して貰えるのは嬉しい。

 ❤は、内向きなこの私の記録行為にも、内側のトンネルを通じて外側にいる皆さんと通じる方法がこのnoteにあった証なのだ。

 そんな魔法の道具を今後も使って行きたい。
 そして、今日もnote相手に独りごちる。

おわり

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