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視聴者の空気を読む報道と、空気に踊る人々

見ている人がどういう空気感かを常に気にして、それに抗わないように内容を調整していく。
報道各局が行っていることだ。

視聴者のターゲットを絞って、見たいと望んでいるものを提供する。
それがマーケティングの基本であり、スポンサーを獲得するためには、特定の視聴者像が必要で、そのためには、その人達が集まるようなネタを提供しなければならないのだから当たり前だ。

視聴者が望んでいるかどうかは、放送後に集計される視聴率によって確認されている。常に後付であるが故に、放送してみたが、視聴者はそういう空気では無かったと気づいて、次回に軌道修正することもあるだろう。

この場合、その後の流れとして3つの筋道が考えれる。
ひとつは、読み誤った空気感に基づく報道が逆に新たな空気を醸成してしまう場合。2つ目が、報道自体がバッシングを受ける可能性がある場合。そして3つ目が、スルーされるということだ。

1つ目の場合は、報道によって社会が流される事例であり、結果的に新たな潮流に報道各社が飛び乗ると、ちょっとしたブームになる。過熱報道は時に真偽不明の情報によって、あるいはフィクション情報によって形成され、現実と離れて独り歩きしがちだ。

2つ目の場合は実はあまり無い。明らかに誤った情報による報道であるとかヤラセ(演出ではない虚偽報道)であるといった場合を除き、報道主体がバッシングされることはあまり見ない気がする。身内には甘くならざるを得ないのだろう。

3つ目のスルーされる、というのが一番多いのではないか。
視聴者も報道の隅々まで真剣に見ているというよりも、聞き流して空気を感じることに重きをおいているフシがあって、何となく見聞きして噂話のネタになれば十分なのだ。
つまり、ネタになるものを探している中で、興味がないものはスルーされるだけということだろう。


散々バッシングして、根掘り葉掘りえぐり出して、本人とは直接関係が無いことについてまで説明を強要して、関係者を心理的不安におとしめた挙げ句、空気の微妙な変化を見てとるや、手のひらを裏返したような歓迎ムードを演出する。
そんな事態を招いているのは報道のみならず、ゴシップに踊る視聴者たちなのだということに気づく必要がある。
意思や真実に反することで世間の注目を集め、しかも叩かれるような状況は、理性的に整理出来ることではなく、普通は心に傷を負うことを免れないようなことだ。

反論や説明をしても、世間の目を後押しに、それでは説明になっていない、説明が足りないと言いさえすれば良いのだから、報道側が圧倒的有利だ。
その圧力を人間ひとりが跳ね返すことなど到底出来ない。

他人の不幸は蜜の味かもしれぬが、沈みゆく客船の中で他人の傷に塩を塗っている場合ではない。
早く浸水を止めて沈没を食い止めることに力を注ぐよう目を向けた方が良いのではないだろうか。

その前に、乗っている客船が沈み掛けていることに気づく必要があるが。

おわり

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