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デジタルワールドに取り憑かれた我々はどうやって身体を取り戻すのか

 スマホを手に取らない日がいつあったか思い出せない。
 インターネットと繋がらない日は恐らく10年以上無いのではないか。
 そしてこれから先も無いのではないか。

 古臭い表現を敢えてすれば、インターネットを通じて触れ合っている世界はデジタルワールドと呼んでいいだろう。アナログワールドとの違いは、アナログが我々自身が世界の一部を切り取る場面が比較的多いのに対して、デジタルは切り取られた世界が容易く我々に提示されることだ。

 元来、言葉や画像や音声や映像によって表されるワールドは、世界のごく一部でしかない。それらの表現手法は世界を切り取るためのツールに過ぎないからだ。情報や情報メディアとはそういうものだ。

 インターネット以前にも本や映画やテレビ、ラジオといった情報メディアはあったし、取り立ててデジタルワールドなどと名付けて取り上げる事では無いかのようにも思えるだろう。だが、以前と今との決定的な違いは、アウトプットの先もデジタルワールドになってしまったという点だ。

 デジタルワールド前夜は、情報が降ってくることはあっても、つまりダウンロードはあってもアップロードは極めて限られていた。庶民が情報を出力する先は大抵が生身の人で、直接会って伝える以外の手段といえば、手紙か電話だった。手紙は即時性の無さによってかえって相手との距離を縮める効果があった。読み手は、書き手が書いているその時に思いを馳せ、想像の中で相手に寄り添って行かざるを得ないからだ。

 電話は電話で、直接傍で繋がっているかに見せかけて、電柱の上を這う電話線を遥か辿って来たあの人の声がようやく届いて受話器から発せられるという風に、はるばるやって来てくれたという感慨を抱かせ得るものだった。

  情報メディアは本来、文字通り単なる媒体でしかなかったが、広く拡散する機能を持ち合わせていたため、下り一方通行の通信手段に過ぎなかった。

 デジタルワールドの技術的根幹となるインターネットが通信技術として確立された後に世界に開放された当初、利用者が情報を探し求めるためのもので、情報を与えたい側が半ば押し付けるような使い方はあまり普及していなかった。

 その意味において、Amazonのレコメンド機能は画期的だったと言えよう。利用者は便利な機能と錯覚しているが、利用者自らが情報を取りに行ったという建前で、情報によって人を操作する機能だからだ。

 デジタルワールドでは、我々が放った言葉や映像は特定の誰かに向けられたものと言うよりも、誰でもない誰かに向けられている。それを受け取る誰かは自らの意思でつかみに行った情報と錯覚しがちだか、これについても選別され分類され、オススメのなにかとして表示されたものを受け止めているに過ぎないことが多い。

 検索をした結果は決してランダムにではなく、自動的だが恣意的に優先順位が付けられて表示されるのだ。どの検索結果を優先するかの判断基準は、どうしたって必要だ。だから、人々はその判断基準に操られざるを得ない。

 デジタルワールドでは、コミュニケーションが成立しているかに見えて、虚無に向かって放たれた言葉が、不特定多数の領域に放出され、恣意的に選別された相手に向けて降り注いでいるのだ。それが相互に行われて疑似コミュニケーションが生じている。
 だから、直接的なコミュニケーションが行える機能であるDM(ダイレクトメッセージ)は極力忌避される。


 デジタルワールドと我々の接点は思考の中にある。
 デジタルワールドへの依存が増えることによって、身体の必要性は年々減っている。例えば買い物に行かなくても食事に行かなくても自宅まで届けてもらえる。仕事はテレワークとなり通勤する必要が無い。井戸端会議はグループLINEで出来る。例えば、だが。

 どれも少しずつリアルワールドとは異質の何かとしてデジタルワールドにコピーされ代替されている。
 会ったこともない人からの「いいね」やコメントに一喜一憂し、疑心暗鬼になり、それでも離れられない。


 リアルワールドの機能の一部であることを認識して意図的にデジタルワールドを利用している限りは良いが、どちらがリアルか分からなくなった時、つまり、手段と目的が交錯したとき、デジタルワールドに取り憑かれた我々は身体を失う。

 そうなった時、我々はどうやって身体を取り戻すのか。

おわり
 

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