見出し画像

映画に浸る

 言うまでもなく、私が映画を見るのは情報を得るためでは無い。でも、これ、敢えて言った方が良い時代になっていそうな気がする。
 映画だけは倍速再生をしたり飛ばしながらの視聴スタイルにこの前まで否定的だった人が、最近はそうでも無いと言い始めたりしているからだ。

 ストーリー情報は倍速や飛ばし見することでは損なわれない。だから、どんな話なのかを追いかけるだけなら、2時間の映画を観るのに2時間費やすのは馬鹿らしいと思うだろう。とはいえ、ストーリー要約を読んだだけで映画見たと人に言うのは虚偽になるから少し後ろめたい。だからこその倍速なのではないか。

 飛ばし見でなければ、ストーリーだけではなくセリフも欠落することは無い。このシーンでのこのセリフがいい、という言われ方もするから、人々はストーリーだけを追っているのでは無く、セリフも重要だと思っているのだろう。
 ストーリーやセリフが重要であるということ自体は私も同意する。というか、重要でないなどというのはありえないのだが、かと言ってそれが全てではない。それらは映画の大切な要素ではあるが、重要な要素だけを集めれば映画になる訳ではない。だから、ストーリーやセリフや、誰が演じているかといったようなことだけから映画を再現することは出来ない。

 ケーキに例えてみよう。
 この上に乗っているイチゴが美味しい、スポンジがふわふわ、生クリームが絶妙な舌触り、と言葉を並べたところで、食べてみないことには何も分からない。そのケーキに使われたイチゴとスポンジと生クリームを別々に食しても、ケーキとして食べたことにはならない。構成パーツがどうだということ以上に全体感が大切なのだ。
 有名なパティシエの作品だから美味しいのではなく、美味しいケーキを作り続けているから有名なパティシエになれたのだ。これ、同じことではない。

 感情移入。私の映画の見方はこれに尽きる。
 映画の中に入り込んで、中の人と同じ時間、同じ場所、そしてその中で生まれる感情をもって生きることによる仮想体験だ。そのための装置が映画館であり、スクリーンであり、音響だ。もちろん、実際はその逆に、映画館があったから、そこでの体験用コンテンツとして今のような映画が作られるようになったのかも知れない。現在のような四方八方から音が飛んでくるような技術があるからこそ、ハードなアクション演出が生きるとも言えるのだろう。アクション映画でなくとも、映画自体の画質や音質・音響は、「まるでそこにいるような体験」をするためには良質な方が良い。

 私のようなそうした見方は、浸るという表現が良く似合う。
 照明が落ちて上映が始まるにつれて、ゆっくりとその映画の世界に沈んでいく。その感覚は、映画アバターの中で人間がアバターの世界に行く際のようなダイブ感がある。映画の世界に浸って、そこで繰り広げられることに同期して初めて映画を味わえると思っている。

おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?