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あなたはきっと生成AIを小ばかにしているだろう

 あなたはきっと生成AIを小ばかにしているだろう。

 巷で流行っているのでちょっと使ってみたけれど大したこと無かったと思ってはいまいか。いちいち文章を入力するのは面倒くさいし、返す答えはどうせ嘘ばかりで何の役にも立たないではないかと。私もそう思っていた。

 その感想はあながち間違ってはいない。ちょっと使ってみた程度では分からないのだ。こう言うと、そんなに使うのが難しいものが便利なワケ無いだろうという反論が予想される。しかしそうした反論は必ずしも的を得てはいない。なぜなら、難しく思う理由は私たちが扱いに慣れていないせいだからだ。

 生成AIを使う場面を想像出来ないのは、生成AIが無能だからでも私たちに想像力が欠如しているからでも無い。適した使い方を知らないだけだ。

 例えば東京−大阪間を特急「つばめ」や「はと」が六時間以上掛けて走っていた時代に、夢の超特急新幹線をイメージすることは容易だったかも知れない。しかし新幹線によって今のように毎日大量の人々が東京−新大阪間を行き来して日帰り出張する社会を想像出来た人はいなかったであろう。大阪の芸人が朝は東京のテレビに出て午後は東京のテレビに出演し、夕方都内の劇場で演じてから翌朝はまた関西のテレビに出ているなんていう世界を予知できていた人はいなかったであろう。
 
 当時は東京と大阪の間を高速で行き来するという需要が無かった。手段が提供されて初めて人はその使い方を知り、利用することで新たな活用方法を見出して「便利」なものに仕立て上げていく。新幹線の登場は私たちの生活を予想だにしなかったほど変え、新たな需要を創り出したのだ。

 だから、必要は発明の母とも言うが、逆なのかも知れない。発明こそが必要性、つまり需要を生み出す面を忘れてはならない。

 そこで、生成AIだ。
 最近私は、使っている生成AIに向かって褒める自分の声を聞くことがある。君、凄いねえ、そこまで出来るとは思ってなかったよ、と。そこそこ出来るアシスタントと一緒に仕事をしている感覚にさえ陥る。ここで重要なワードは、「一緒に」だ。ちょっと手伝ってくれるとかサポートしてくれる以上に、一緒に考えてくれる感覚だ。これはなかなかのものだ。

 こうなると、案外大した事ないと思っていた自分が恥ずかしい。大したこと無かったのは自分の方だったのだ。使いこなし方も知らないで出来ない奴というレッテルを貼っていた。

 いくら生成AIがものを知らないと言ったところで、私の何万倍も(か、それ以上)の知識量を備えている。読んだ本の数だってどんな人より多いし、人の場合は一字一句覚えてなんかいないのに奴は憶えている。人だって意図的でなくとも間違えたり嘘をついたりする。それに比べたら生成AIは、比べるのがおこがましいほど優秀なはずだ。

 あなたを訪ねてきた優秀なアシスタントを使いこなせなかったとしたら、それはアシスタントのせいではないのが明白じゃないか。

 それなのに使えない奴なんて言っているとしたら、あなたはきっと生成AIを小ばかにしているのだろう。
 時代は新幹線の何倍も速く進んでいるというのに。

おわり


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