見出し画像

見えない繭

 私の住んでいる地域は全国的に見れば便利な場所と位置づけられるはずだ。しかし実際は都会の中の田舎だと思っている。

 最寄り駅までは歩いて30分、最寄りのスーパーまでは歩いて15分、最寄りのコンビニまでは歩いて5分。
 通勤では最寄り駅までのバスを使い、道が空いていて信号がなければ車なら5分も掛からないところを、2、30分くらい掛けている。
 駅からは会社の最寄り駅まで電車でさらに一時間。毎日賞味三時間は混雑した交通機関での移動に費やしている。
 休日だって、道は狭くて信号が多いから渋滞も多くて、車移動は快適とは言えない。

 つまり、案外不便なのだ。

 何が言いたいかと言うと、車を所持するメリットがあまりないということだ。
 ところが、だったら車を手放すかというとこれがそうもいかない。なぜならホームセンターで資材を買ったり、IKEAで家具を買ったりといったときには、やはり車が便利だからだ。これらの店が家の近くなら別かもしれないが、実質的に車でないと行けない。
 こうして毎年、自動車税や自動車保険を支払い続けているのだ。

 ではいっそのこと引っ越したらどうか。
 しかしこれは仕事の絡みでそうは行かない。そう簡単に会社を辞めるわけには行かない。

 と、ここまで考えてふと思う。

 どうしてこうも会社というものに縛られなければならないのか。ホントのところもっと自由に生きたいとは思う。でも思うだけで実行に移す勇気などない。自由になったときのリスクを受け止めきれない。
 かと言って、実際にどれだけのリスクがあるかは分からない。きっと大したリスクなど無いのだろう。よっぽどのことがあっても命の危険に晒される事などそうは無いのだろう。

 例えば、残りの人生を掛けて有り金を握りしめて投資に注ぎ込み仮に失敗したところで、それだけですぐに死ぬわけではない。だから死ぬ覚悟でやれば何とかなる。
 でも、その死ぬ覚悟が出来ない。
 要するに温室が心地良いだけなのだ。
 安全地帯の中でぬくぬくしていたいだけなのだ。もちろん、守るべき家族がいる、なんて言う有り体の言い訳だってある。敢えてリスクを取るという野心や動機だって無い。

 つまりは、自分の人生を自分で決めるということが出来る環境なのに、そのチャンスを与えられながら放棄してしまうという思考停止状態なのだ。

 国によっては自ら望んだ道を思い描くことすら許されない環境もある。考える間もなく死の危険がそこに迫っているようなところで生きざるをえない人もいる。
 それに比べたら、日本という国では自由に生きられるはずだ。慣習という見えない枷があるとしたら、その殆どが幻想か思い込みだ。

 なぜ一歩を踏み出さない。
 何を恐れるのか。

 そんなことを考えても無駄だということは私自身が一番よく分かっている。
 そういった恐怖は私の心の奥底に強力な根を張っており、私を大地に縛り付けている。

 だから、私は都会の田舎に埋もれながら、また今日という日を過ごしている。
 見えない繭のなかで。

おわり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?