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人間の意識の源
動物に無くて人間にあるとされる意識。
AIが広く普及しようという今でも意識の問題は取り残されている。
それは、意識というものがどこかにあると思っていて、それを探しているからではないだろうか。
意識は脳の機能の一つであって、どこかにあるものではない。そんなことは哲学者ならば誰でも知っているのかもしれない。問題は意識がどうやって起きるのかだ。意識があるように思えるメカニズムだ。
意識で重要なのは、自分以外の誰かを自分の中に見出す点だ。医学的に言う場合の意識、つまり意識がある無しで言えば少し違って、声掛けに反応するかどうかだろう。しかし、それ以外の意味で一般的に用いられる意識という意味は、自分のことを自分で分かるという心の動きのことだろう。
きっと、自分を客観的に見る自分を持たない人はいないだろう。
しかし、意識というのはそのもの自体が特別凄いものであるわけではなく、それがあるお陰で社会が作られたという意味においてのみ凄い事なのだろう。人間に意識が無かったらきっと社会は形成されなかった。意識があったからこそ社会を営むことが出来た。
何故か。
それは、社会という(架空の)ものを客観的な存在として想像することは、意識という脳の機能が無ければ達成することが難しいものだからだ。
人間の意識は脳に宿る。
意識は脳の機能の一つということだ。人間の場合、どうして自分を見ている自分というような考え方が出来るのか、自分をあたかも客観視しているような態度が取れるのか。それは、人はふたつの脳を持っているからだ。
右脳と左脳は機能が違うと聞いたことがあるだろう。右脳は直感的で左脳は理性的であるとか、右脳はイメージを左脳は文字や数字を扱うと。つまり、人間の場合、右と左にある脳は別のものなのだ。ひとりの人間の頭の中には性格が異なるが同じ様な能力を持つ脳が2つある。右脳は左脳を客観的に見られるし、左脳は右脳を眺めることが出来る。これが意識の源だ。私はそう考えている。
ここで疑問が湧く。
なぜ右脳と左脳は互いに相手を同じ自分だと認識するのか。
きっとそれは身体のせいだろう。脳は身体という制約から逃れられない。同じ容器に収まっている限り、自分と見なさざるをえない。もっとも、現代人は心と身体を分離して考える習慣が広まっているので、心も分断し易いのだろう。心の不調はそんなところからも来るのかもしれない。つまり2つの脳が同じ身体にいるということに違和感を覚えた時に、自分という同一性を保つことが難しくなる。
ひとりの人間がその身体の中にふたつの脳を抱えていることによって意識が生まれているのだとしたら、そしてそれが右脳と左脳によるものなのだとしたら、人は生活の中で右脳と左脳をバランスよく使うことを心がけた方が良さそうだ。きっと理解し合えない二つの脳は、両方あるからこそ人間を人間らしくしているとも言えるのであって、理性だけでも直感だけでも物足りないものになるのだろう。
何で意識があるのだろうと考えている左脳にとって、意識の謎を解決出来ないのは、その時右脳の存在を忘れているからだ。身近にいる仲間であり別物である存在を忘れているからだ。
脳の部位ごとに機能を見出した研究もあるが、実際の脳の働きはそこまで単純なものでは無いのだろう。ふたつの脳と一つの身体がバランスを取りながら在ることが出来るように、意識した生活を心がけたいものだ。
おわり
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