読書に溺れた日々
何となくついて行くことが出来なくなって、みんなが乗っている動く歩道から自らそっと降りたのは、高校1年のおわり頃だった。
みんなは実に楽しそうに闊達に青春を謳歌しているように見えたが、並走する歩道の私から見れば、見えない動力によって動かされているレールの上で踊っているということに気付いていない人々に思えた。
動かない歩道に降り立ったものの流れに逆行することまでは出来ず、人並みに大学入学試験を受けてみた。もちろん、学ぶことを諦めていた私が受かるはずもなかった。
予備校というレールに載るつもりがなかった私は周囲の心配をよそに、ただ独り社会の圏外にある沼に脚を踏み入れた。
親の目という重圧以外に、起きる時間も寝る時間も何の制約もない自由な生活が天国だったかと言うとそんな事はない。自室に籠って勉強している振りをするのは疲れる。
しかし当時の私には本があった。
だからベッドに寝転んでは本に溺れた。溺れながら読んだ。読み疲れると窓から空を見上げたり、沈む夕陽が織りなす天空のグラデーションに酔いしれたりした。
高校に入って間もなく腰を痛めていた私は、暇をもて余す浪人の期間を利用して治療することに決めていた。月に何度か、電車に揺られて1時間以上掛かる場所にある怪しげな武道系整体に通った。その帰り道は必ず書店に立ち寄った。
そのうちのひとつ、◯◯書林は自宅最寄駅の近くにある個人が営む小さな店舗だったが、蔵書のバリエーションが豊富で、私には宝の山に思えた。書の林の中で気の済むまで本を眺めているのが至福の時だった。
参考書を尻目に、読んだ本は次々と押入れの奥に押し込んだ。奥行きのある使いづらい押入が役立った。特に気に入った本は手前に、そうでもない本は奥へと詰め込んだ。
そんな状態だったから、熱心に受験勉強をしたという記憶が無い。必死に浪人時代を過ごしていた人には申し訳無いが、私には必死になるモチベーションが無かった。あるとすれば、この閉じ込められた様な環境から抜け出して、これぞ青春という体験をしてみたいということだった。それでいながらレールには載りたくないという矛盾を孕んだまま。
幸運にも今があるのは、浪人時代に溺れた本があったお陰だと言える。どんな参考書よりも役立つ解法を教えてくれた。それが時を経た今でも役立っているのだ。
ネットに時間を奪われがちな今だからこそ若い時の読書を勧めたい。
おわり
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