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美味しいコーヒーが飲みたい

 私は無類のコーヒー好きを自負している。ところが、いまだかつて美味しいコーヒーを飲んだことがない。味覚や嗅覚に問題は無いから味の違いが分からないということではないだろう。不味いコーヒーはいくらでも飲んだことがあるから、不味さが分からないということでもない。

 強いて言えば、美味しさに鈍感というなのだろうか。食のレポーターがやるように、一口飲んだか飲まないかのうちに、あー美味しい、とやりたいのではない。普通に飲んで、普通に美味しいねと語り合いたいだけだ。しかしそれが出来ない。なぜなら、口に入って来るやいなや、いやカップに注がれた状態の時から、頭の中で分析が始まってしまうからだ。

 飲む前の香りや口に含んだときの味、喉越しや後味、鼻に抜ける残り香。そうした分析が勝手に始まってしまって、ひとつの「美味しい」という言葉に辿り着かない。辿り着く前にモヤモヤと消えてしまう感じだ。
 いい香りだな、マイルドな舌触りの中にしっかりしたボディと仄かな苦みがあって、どちらかと言うと酸味が強いかな、あ、後味が今ひとつで残像が安っぽいな、といった具合だ。もちろん、実際にはここまで明確に言語化されていない。香りや味のそれぞれを感じることに夢中で、出来上がった立体造形には何が欠けているのかということに目が行ってしまう。つまりは「美味しいが…」となる。

 それでも、「う〜ん、美味い」となることも無いではない。それは意外にも、味を感じない時だ。味がないのではない。いちいち感じさせないということだ。香りを口に運んだと思ったら何の抵抗もなく雑味もなく後味の悪さもなく、スルリと喉を通過する。味が纏っていて調和しているとでも言おうか。味のひとつひとつがバラバラになっていない。

 でも本当に難しいのは、そうしたスルっと飲めるコーヒーが全て美味いかと言うとそうではないことだ。調和していて整ってはいるが深みや奥行きが感じられない時だ。立体的でないと美味いに繋がらない。
 小難しいことを言っているから楽しめないんだ素直に美味しいと口に出して言えよ、と言われればそれまでだが、こればかりは仕方が無い。
 こうして今日も私は美味しいコーヒーに巡り会えることを期待して豆を挽いている。

おわり

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