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映画『アバター』(復習と予習)

 神をも上回る力を得た人間は、自然を従属させ利用することによって文明を発達させてきた。エゴイスティックな享楽を得るために破壊の限りを尽くし奪えるものは奪ってきたのが人類の歴史であった。
 かつておそれた自然は驚異ではなくなって、ただの野蛮なリソースに成り下がった。

 こうして無敵になった私たちにとっての敵は何なのか。

 公開当時に映画館で観た時には、3D映画の目新しさと、当時は馴染みの無かったアバターという近未来の概念にワクワクし、ひとつのSF映画として楽しむことで精一杯だった。
 髪の毛が他の動植物とリンクするためのデバイスになっていたり、星の木々がすべて繋がってネットワークを構成していたりという設定も、映画「マトリックス」の世界観と重ね合わせてしまうと、単なるSF的ギミックに思えてしまう。

 しかし改めて観てみると、表面的なSF的なストーリーのプロット以上に、現代社会への警鐘を鳴らしていたのだと理解出来る。
 星の原住民は、人間がその営みによって自己攻撃した結果、私たちが失ってきた大切な何かを象徴しており、彼らからすればエイリアンである私たち人間は、自傷行為を繰り返してきた私たち自身を投影しているように思える。
 ひとたび見方を変えれば人間はエイリアンであり、大切なものを平気で破壊しようとする横暴で馬鹿で無知でまるで「子供」のような幼稚な存在であるということに気付かされる。
 自分と自分以外を創り上げ、自分以外を安易に敵と見做して無為の戦いを挑む。私たちは、そうした態度を叱ってくれるメンターを失ってしまった。

 髪の毛デバイスが実は目に見えない「絆」を視覚化したもので、光は目に見えない生命いのちを視覚化したものだ。
 空と低い重力は私たちが知らず知らずに縛られている何かからの開放を表し、磁力は地球がそれによって守られているように原住民を守ることに役立っている。原住民の身体が人間よりも大きいのは、存在自体の大きさを物語っている。平和や神秘を表すブルーの肌をしているのも偶然ではない。

 一見すると原住民を侵略する文明人に対する批判かのように思えるが、この映画によって批判にさらされているのは過去の人類が犯した罪ではなく、現在の私たちが日々犯し続けている原罪に似た何かだ。罪を生産し垂れ流し続けていることに私たちは全く気づいていない。むしろ良かれと思ってやっていることが多い。

 人の成長に何が必要か、社会にとって大切なことは何か。
 私たちはアバターを通じて社会学的な知見にも通ずるヒントを得られる。そう感じた。
 
 文明が如何に発達しようとも私たちはアバター神の化身から遠ざかるばかりで、私たちの敵は今のところどこまで行っても私たち自身でしかない。

おわり
 

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