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三十代

「おじさんにちょっと貸してごらん。直してあげるから」
 小学生に入るずっと前、少し無骨で強面だが自動車工場で働いていて機械に詳しい親戚の叔父さんが壊れたおもちゃを直してくれた。
 上手くありがとうを言えずに、母親にこっそりと「おじさんがなおしてくれた」と伝えた。
 あのときの叔父さんは、すごく大人というか老けて見えたし、間違いなく「おじさん」だった。でも考えてみると、叔父さんはちょうど30代に入ったばかりの年齢だったはずだ。まだまだ若かったはずなのだ。

 子供の眼で見えた大人たちは遥か高く、みんな年齢なりの年を取っていた。きっと大人の目線から見る景色は子供とは違って、世の中のことがもっとはっきり見え、人のことがよく理解出来るのだろうと理解していた。父親がニュース番組を好んで見たり新聞を読んだりするように、大人になればテレビの中で言っている難しいことがよく分かるようになるのだろうと思っていた。


「子供の頃に想像していた大人から見える景色はいったいどこにあるのだろう」

 三十代になった時に私が最初に思ったことだ。
 視界は20代はおろか10代の時と比べてもさして変わっていないように感じた。何も分かるようになっていないし、ニュース番組よりもバラエティだし、新聞記事をネタに議論することもなかった。
 何よりも、子供の頃に想像していた大人から見えるはずの景色はそこには無く、昨日まで見えていた景色が変わらずに広がっているのだった。身長が伸びた分、子ども達が下に見えるが、眼から入った情報を感じ取る脳の側は身体ほどには成長していないことを気付かされた。

 大人になることは、経験や知識の蓄積とは別の次元だった。
 ただ時を過ごしてきても心は子供のままだった。笑ったり泣いたり怒ったり。さすがに駄々をこねて地団駄を踏むようなことは無くなって、つまり感情の表出の仕方は変わったものの、心の中身は変わらずにそこにある。

 それは四十代になっても、五十代になっても大して変わらなかった。
 私の身体の中には、私の身体を操縦している子供の頃の私がいて、操縦桿や多くのスイッチを前にもがき続けている。視界は子供の頃のように澄んだものではなくて、むしろ濁っていて見通しが悪い。
 身体スピードも思考のスピードも年々遅くなっていく。
 ここに来て私は成長の意味を取り違えていたことに気づき始めている。
 成長することは立派になることとは限らないことなんだと。

 あのとき、おもちゃを直してくれたおじさんは間違いなくやさしくて立派な大人だった。
 そして私は時々思い出したように自分に問いかけている。
 いまの私はあのときのおじさんのような立派な大人になれているのだろうか。

 現実の私は、未だに「おじさんに貸してごらん。」と一瞬の躊躇もなく言えたためしはない。

 そして私は天にいる叔父さんに問いかけている。
 私はあなたのような立派なおじさんになれますか、と。

おわり

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