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データと事実と仮説と予測

このデータは何を意味しているのですか?

この質問は、あるデータを示された時に人が言ってしまいがちな誤った問いかけだ。
データは単なるデータであって、そこに「意味」はない。何かを意味していると思い込んで、何かの意味を見出すのは勝手だが、それが当たっている保証はない。

あるデータが得られた時、事実と言えるのはデータそのものだ。
データは、過去の推移であったり、実験の結果であったり、アンケートの結果であったりするが、どれも数値で表されたものだ。

データを目にすると、人は様々なことを想像し、思い巡らせ、予想を立てようとする。
想像して思いを巡らせるところまでは良い。
予想を立てることも、まあ、良い。こうなるかもしれない、こういうことかもしれない、という予想は良い。
そのような予想を科学では仮説という。

仮説は別のデータによって検証される必要がある。
しかし、過去のデータから未来を予測してはならない。というか、予測は出来ない。
仮説を立てて、その仮説に基づく未来の予測値を計算し、後に現実世界で起きた結果と照らし合わせて予測値にどの程度のズレがあったのかという検証を繰り返すことで、仮説モデルの完成度を高めていくのは良い。

しかし、科学者は様々な(都合の良い)前提条件を立てることが普通で、その時点で現実世界とは別のバーチャルな話にならざるをえない。
科学の対象は現実のコピーではなく、現実の一部を切り取ったものだからだ。
だから、現実に起きることの予測は原理的に出来ない。
こうなるかもよ、と可能性を伝えるのは予報という。可能性について予め報告しておくということだ。これは予測とは違う。

予測が出来ないとしても、過去のデータを見れば、なぜ起きたのかが分かると思いたくなるだろう。
しかし、過去のデータから分かるのは、こういうからくりで起きたのではないかという予想レベルのもので、仮説を立てて検証してみないことには事実に辿り着けないのは同じだ。
こうかもしれないと言ったところで、過去の状況をまるまる再現することが出来ない以上、仮説を検証する手立ては無い。過去の検証よりも、未だ起きていないことを扱う未来予測の方がよっぽど無責任に言い放てるというものだ。

立ち戻ってデータについて考えて見ると、データだって実際の世界そのものではない。部分的に切り取られたものだ。それは事実と言えるのだろうか。
「実際にあった事柄、現実にある事柄」という辞書の説明のように、事実という言葉を厳密な意味で考えると、データは事実とは言えないだろう。
83というような数値データそのものが事実であることは間違いないが、そのデータは事実(現実世界)そのものではない。

人は、理論や理屈によって事実が見いだせて、将来が予測出来ると思いたがる。
だが、そんな頭の中で捏ね繰り回して造られたものは、絵空事に過ぎない。
科学者は何にも分かっていないじゃないか、という批判は、何を今更ということであって、科学者にとってみればそんなこと最初から分かってるじゃないか、ということだ。
科学者は分からないから科学者で居続けているのだ。

科学は何でも分かるというような科学に対する誤解は、どうやら科学と技術をごっちゃにしているからではないかと思う。
技術は科学的研究手法を用いることで発展してきており、それが科学の万能感を生み出しているのではなかろうか。
空想したものを設計し、やってみて、失敗しては改善して試す。トライ&エラーを繰り返すことで完成品に近づける。こういった手順は科学的研究手法に近い。
手法的には近いが、技術が最終的に物を造るのに対して、科学が創るのは想像だ。
物は有限で、想像は無限だ。

科学は自然界を切り取って行われるものであるから、全て解った! というような終わりは絶対に来ない。
自然界は積み木やブロックではない。
人間を解体していっても、どこにも「命」は見えない。
科学で世界が分かると思うのは誤解も甚だしい。

だから、科学者の予測が間違っていたと咎めるのを見たり、この先どうなるとお考えですかと問われるのを見る度に、聞くべき相手は科学者ではなく預言者だろうと心のなかで独りごちている。
預言者が登場するのは、こんな世の中なのかもしれない。

おわり

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