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よりどころ

アンケートでは日本人の半数以上が信仰している宗教は無いと回答している。
私は特定の宗教団体に加入したり、洗礼を受けたりしたことは無い。
家庭の事情で、普通の人なら経験するであろう墓参りや七五三、初詣などの仏教や神道に関連した経験もほぼ無い。それでも、結婚式やお葬式に参列したことはある。

お墓参りなどのある意味日常行事としての宗教チックなしきたりも立派な宗教観に基づいたものであり、ある種の信仰心の表れだろうと思う。なにも神様の御前で膝をついて首を垂れて口をそろえて祈ったり懺悔をしたりというだけが宗教ではない。
じいちゃんの墓を清めるという行動も宗教的行動であることは間違いない。なぜなら、そこには「よりどころ」があるからだ。

私の勝手な理解だが、宗教は何らかのかたちで人に「よりどころ」を提供するものだと思う。
「神様」という存在や教義も「よりどころ」になるし、特定の行動ルールや作法も「よりどころ」になる。
家族内で決められたルールだって十分「よりどころ」になりうる。

自分以外の何者かによって規定されたルールに無条件に従うことは、自分の中に自分以外の視点を持ち込むことであり、絶対的な判断基準を得ることになる。つまり、これこそが「よりどころ」なのだ。

誰かに決められたルールに身を委ねるのは、ともすれば自由意志とは真逆の行動に思えるが、両者は問題なく両立する。
なぜなら、意志は何もない荒野に立ち現れるのではなくて、生活の中から生じるものだからだ。
つまり、自由意志と思い込んでいる自由は、縛り付けるものが何もない全き自由とは違う。無重力空間と言われる宇宙の中で、重力が働かない場所が無いのと同じだ。

「よりどころ」を伴った自由こそ人に自信を与え、あるがままにいながら我儘にはならずに振舞えるようになるものだと思う。

「よりどころ」はひとつだけでなくても良い。
日本人の多くは無宗教を自覚しながらも、お葬式からクリスマスやバレンタインデーまで、実はいろんなものに「よりどころ」を見出して上手く付き合って来ていて、そうした全体が大きな疑似宗教として機能している、というのが日本人の無宗教の本当の姿なのではないかと思う。
昭和の時代のカイシャへの帰属意識も「よりどころ」のひとつであっただろう。

では、私の「よりどころ」は何かと問われると、これが無い。

ともすると暗黙のうちに巻き込まれてしまう「みんながやっている」ことから敢えて距離を取ろうとする私は同時に「よりどころ」と成り得るはずの様々なことからも遠ざかって来た。

特に心の面で「よりどころ」が無いことが私の一番の問題だ。
何か大きな精神的な問題にぶち当たったときに頼れる指針が私には無い。だからと言って宗教に答えを求めようとは思わない。それは「よりどころ」に頼りたくないということであり、自分を明け渡して、自分を開放して得体のしれない何かに委ねたくはないということだ。


メンタルヘルスの問題を抱える人が多く、高い関心を持たれているように思う。
精神面での不調から退職する人を多く見聞きする。
原因は様々だろうから私のような専門外の素人の言うことは何の信頼性も無いが、精神的不調の原因は「よりどころ」にあるのではないかと思っている。
凹んだ時に頼れる「よりどころ」があるかどうかが重要だ。

宗教にも「よりどころ」はあるが、一番身近で大切な「よりどころ」は家族だと思う。親との関係性だと思う。
親に対して自分をさらけ出して頼り切って甘えられる、そんな家族関係があるかないか。

それは、逆に見れば、無条件に受け入れてくれる人がいるかどうかということだ。あなたはあなたでいい、と言葉にしなくても言ってくれる人、見ていてくれる人がいるかどうかだ。
それは愛と呼んでも良い。

自分の場合を考えてみると、親との関係性は歪んだ愛情によって立っていて、ある時から境界線を作って距離を取る必要に迫られた。

こんな時だからこそ、世の多くの家族が幸せに、心豊かに暮らせることを祈りたい。

おわり

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