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極北カナダ Vo.2 南東アラスカへ 『 −30℃のテント暮らしに到る道 』

”チベット仏教の僧にならなかったのも、企業に就職をしなかったのも、何か人間が関わって作られたものに魅力を感じることはできず、代わりに大自然であれば嘘はつかないだろう。。。そう思ったからだである。大自然に向き合えば自分自身の嘘もばれ、最悪な場合は死に到る。その公平さに魅力を感じたにに違いない。”

Vo.1のお話の続きです。(Vo.1はこちら↓)

2004年、ようやく始めてカナダの極北ユーコン準州を訪れることになった。26歳のことである。本当はもう2、3年前に来たかったが、「原因不明の目がはっきりとは見えなくなる病気」にかかり、大阪の田舎の動物保護団体で働きながら、病気の再発がないかを確かめていた。(随分後に、原田病だったのではないかと判明)。この間は、カナダ極北ユーコン、そして隣のアラスカの情報を集め、いつか訪れるこの地で行いたいことを頭の中で組み立てている期間だった。

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最終目的地はユーコンの北極圏の先住民の村のオールドクロウ。その途中で海沿いの南東アラスカでカヤックでの2−3週間のソロ冒険を行い、最終的には夏にユーコンへと到着できれば。そう思い、2004年の春に日本を経った。

極北で体験したいこと。それは人の手がほとんど入っていない大自然で、自分を試す冒険的なものに出かけることだった。以前お世話になった極地冒険家の大場満郎さんの影響や、当時よく読んでいたアラスカの写真家、星野道夫さんの影響も大いにあったと思う。この頃はとにかく体を動かし、危険な思いをしながらも、自分の存在をしっかりと確かめたいと思っていたのだ。

チベット仏教の僧にならなかったのも、企業に就職をしなかったのも、何か人間が関わって作られたものに魅力を感じることはできず、代わりに大自然であれば嘘はつかないだろう。。。そう思ったからだである。大自然に向き合えば自分自身の嘘もばれ、最悪な場合は死に到る。その公平さに魅力を感じたにに違いない。

とは言っても、何のスキルもなしに極北の大自然に出ると、本当に死んでしまうに違いない。アラスカの海に2−3週間独りぼっちとなれば尚更のことだ。そこでカナダ到着後に、隣のバンクーバー島で1週間のシーカヤックと原野のキャンプのコースをとることにした。シーカヤックの基本から、マップの読み方、波や風の読み方、マリンラジオの使い方、食糧確保やクマ対策、原野でのキャンプの方法など、様々なことを短期間のうちにみっちり学んだ。

バンクーバーである程度のカヤック用品を購入し、再びバンクーバー島付近で練習。その時の現地の練習相手からは、「アラスカの海は寒いぞ。カヤックから落ちると低体温症で死ぬぞ。」そう脅されていたのである。

様々な不安を抱えながらも、フェリーに乗ってアラスカへ向けて北上した。時折見えるシャチの姿。大海原を自由に泳いでいる。カヤックのひとり旅では、どんな体験ができるだろうか。これから始まる冒険に、期待が膨らんでいった。

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フェリーはカナダを出て、アメリカのアラスカ州へと入った。アラスカ州はアラスカ本土が大部分を占めるが、一部が南に向けて海沿いに伸びている。アラスカのパンハンドル(フライパンの取っ手)と言われるように、アラスカ本土がフライパンだとすると、取っ手のように伸びているのが南東アラスカだ。

南東アラスカは、太平洋沿岸にたくさんの島々が連なる、巨木が聳える温帯雨林地帯だ。氷河と森の大地でもある。フェリーは南東アラスカの街、ケチカンに到着。この街のマリンショップからシーカヤックを3週間借りることにした。食料品を街で買い、キャンプ道具と共に、細長いシーカヤックに詰めていく。これがなかなかの作業で、思うように入っていかない。何せ今から3週間は、ここにある道具と食糧で生きていかなければならないのだ。

何か忘れてはいないか。壊れた時はどうするのか。緊急事態の時は?色々と頭の中で確認しながら、一つ一つ詰め込んで行く。

最後に残ったのが大きなキャベツ。ある程度は生野菜もあった方が良いかな。そう思い購入したが、適当な収納場所が見つからずにカヤックは満杯に。仕方なく唯一スペースが残っていた股の間に挟んで、カヤックを漕いでいくことにした。今回の冒険は独り旅。キャベツが股の間に収納されていたとしても、誰も文句を言う人はいないのだ。

2−3年間温めてきた、極北の独り旅計画。ようやく実現しようとしていた。

(次回Vo.3に続く)

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