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豊かな生活に必要な羨ましさを考える

帰国して数ヶ月経った。緊急事態宣言下での初めての生活だけど、某国でロックダウンを経験していることもあり、自由な生活だと思ってしまう。とはいえ、帰国後の今もほとんどを家で過ごし、買い物の9割はインターネットである。当時でも、さほど厳しかったとは思わないが、外に出れば砂漠状態で人っ子ひとりいない状態だし、外には家にいることを促す警察官がそこかしこにいたあの時を思えば、自由さを感じてしまうことは否めない。

さて、先日の記事で「何がしたいのか分からない」と書いた。今日もまだ分からないままである。ただ、ふと思ったので書こうと思ったことがある。それは、「豊かな生活」についてである。私の思う、豊かな生活とはいったい何なのだろうか。

インフルエンサーと言っていいのか分からないが、数名の日本人の超お金持ちの人や、仮想通貨で稼ぎながらもクリエイターとして(実際何をしているかは知らない)世界中を旅している若い女性、家族を連れてドバイへ移住したコンサルタントなどなど…そんな彼らを私はSNSで追いかけている。こんな世界があるのかという世界を見せてくれるし、個人でそんな多額の税金を払っている人がいるのかとも愕然としてみたり。そんな彼らはそれぞれの方法でとてもリッチな生活を送っている。

美味しいものを食べ、豪華に着飾り(好みのファッションかは別として)、キャンディかと思うような宝石を購入したりしている。その切り取られた内容自体は羨ましくも思う…。特にお寿司屋さんを家に呼んで握ってもらうなんて、なんて羨ましい!これは近々一回やってみたいと思っているけれど。

すごいなぁ。いいなぁ。

私はそう思っていた。けれど、どの程度のソレなんだろう。そうなりたい、同じことをやりたい!のか、へぇーやれるもんならやってみたいとか。いわゆる羨ましさを感じている。けれど、私は本当のところ、どこまで本当に「羨ましい」と感じているのだろうか。いったい何が羨ましいのだろうか。

掘り下げる必要があると感じた。豊かな生活とは、羨ましいと思っていることを実現した結果なのではないか。ただ、羨ましさひとくくりで全てを実現しようとしても、おそらくそれでは私の望む豊かな生活は送れないと思った。私には、購入可能金額といものが存在するとして、昨日雑誌で見た素敵なランプを私は今日楽天で軽々と手に入れることができるかもしれない。でも、素敵だな欲しいな豊かになれそうだと、欲しい(あることが羨ましい)と思ったとしても、直感が磨かれていないまま、思ったままに買ったところで、いや持っても恐らく手元に来たところで、豊かな気持ちにならないと思った。反対に言えば、本当に欲しいと直感で思うならば、金額は厭わず、真っ当な方法で購入することも可能なのだろう。

羨ましいと感じる気持ちを精査すること。今の自分にはきっと必要なことなのだろう、そして、「直感を磨く」これもまた大切な要素なのだろう。

今日は続きはまた今度。


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